平家ゆかりの地 能登原・横倉  広島県福山市沼隈町 
05/1/3(月) 沼隈郡沼隈町は福山市と(2/1)合併   2011/1/9(日)  2013/11/17(日)

平家ゆかりの地

2012年NHK大河ドラマ 平清盛  

05年のNHK大河ドラマは「義経」。源氏と平氏の攻防の中で、義経がどう生きたのか。
広島県内には平家ゆかりの地たくさんあり、往時を垣間見ることできます。

厳島神社
(佐伯郡宮島町)
平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168)ごろには社殿が造営された。
平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多くの貴族を始とする人々の
知るところとなり、社運はますます盛大になった。京都からは、皇族、貴族が訪れ、
当時の平安文化が積極的に取り入れられた。舞楽が始まったのもこの時代。平家文化の華麗さを
現代に伝えている。
警固屋
(呉市警固屋)
音頭の瀬戸開削の時、警護の武士がいたことから警固屋の地名が残っている。また、
警固屋は食料を集めた食小屋(こげや)であるともいわれる。
音戸の瀬戸
(安芸郡音戸町)
平清盛の音戸の瀬戸開削の伝説が残る。岩礁の上に、清盛をまつる清盛塚があり、
毎年旧暦の3月3日には、清盛祭が行われる。音戸の瀬戸をまたぐ音戸大橋は、
らせん型高架橋とループ式道路を組み合せた珍しいもの。音戸公園には、
平清盛日招(ひまねき)像もある。日招像は、旧海軍の砲台を台座としている。
御手洗
(豊田郡豊町)
平清盛がこの地に流れつき、手を洗ったことが御手洗の地名の由来ともいわれる。
平家伝説地
(沼隈郡沼隈町)
<能登原>この地で源平合戦があったと伝えられる。
能登原の地名も平家の武将の華・能登守教経に由来する。
<横倉>能登倉の戦いに敗れた平家は、壇ノ浦へ向ったが、
一部は横倉の谷あいに安住の地を見いだしたと伝えられる。
鞆の浦
(福山市鞆)
重盛、知盛、教経に斐忠次郎が操船術を伝授し、平家水軍を育てた。
敷名泊
(沼隈郡沼隈町)
平安時代、平氏をはじめとする都の貴族たちの厳島詣が流行したころ、
沼隈の入江敷名泊で船を降り休息した。当時は、商業ルートの港としてもにぎわった。
庄原の敦盛さん
(庄原市)
庄原地方には古くから平敦盛を歌った「敦盛さん」が歌われている。
人々が集まるとその余興に歌われ、正月になると家々をまわって歌う「門付」歌も「敦盛さん」。
敦盛自身か、それともゆかりの者がこの地に縁があったのか?
平家ガニ 瀬戸内海には平家の武者の顔をしたカニがいる。
伝説によると、平家の亡霊のしわざとか・


2011/1/9(日)

福山市ぬまくま文化館  −枝広邸−

開始時間:午前9時〜午後5時
     入場無料
休館日:毎週月曜日(月曜が祝日の場合翌日)
    年末年始(28日〜3日)
地域文化の応接間、「茶の心」・「華の心」・「集う心」
くつろぎと、ゆとりのときを・・・・・ 
 
岩あなをくぐって茶室へ・・・
幕末当時の面影をそのまま残す。
わずか2畳の茶室・清泉堂
   口無湾に注ぐ山南川の湖畔に立つ
数寄屋造りの静かなたたずまいと
日本庭園が深い味わいを演出。

四季のうつろいを感じながら、
お茶やお花に、作品展や各種文化活動にと、
楽しみ方はいろいろ。


 能登原とんど
高さ10mの飾り付けが美しいとんどが、地域を練り歩く正月の風物詩。

1月第2日曜日
能登原小学校 14時

能登原の6町(西から桜・白浜・立河内・下組・本谷・鞆路)がそれぞれ
一基をこしらえ、横にして台車の乗せて各地区を引きながら全420戸
を巡った後に、小学校へ集結。
互いの美しいとんどをぶつけ合った。

能登原八幡宮  

初詣でしました。 家族健康で 災害のない年 平穏 祈りました。 

05年1月3日 能登原お弓神事  2013/11/17(日)第11回健康ウォーキング大会〜潮風と歴史の香る能登原・阿伏兎〜

能登原の沖に丸い島が浮かんでいる。
この島は「矢の島」と呼ばれている。
周囲730mの小さな無人島。今から
八百年ほど昔 『文治元年(1185)屋島の合戦』
四国の屋島を追われた
平家の武将 能登守教経らの一団は、燧灘を
渡り陣を鞆に構えたがさらに追われて能登原へ
逃れ、ここに陣を構えた。 
 

一方、源氏は軍を二手に分け一つは鞆にもう一つは
田島内浦に陣を張った。(那須与一の一隊)両軍は、
大かがり火を焚きにらみ合いを続けた。ある夜のこと、
平氏の見張が「田島から源氏が白旗を立てて押し寄せ
てくる」と教経(のりつね)に伝えた。教経は、松に掛けて
いた弓を取って白旗めがけて矢を射たが、いっこうに
手応えがない。暗闇の中をよくよく見ると、白旗と思って
いたのは、実はかがり火に驚いて飛び立った白鷺の
一群であった。教経は 「富士川の二の舞であった」と
笑い、一団はぐっすり眠ってしまったその夜のこと、鞆に
陣した源氏軍は能登原を攻め込み、田島からの源氏軍
との挟み撃ちに合い、平家軍は総くずれとなった。ある
者は腹を切り、ある者は山道を辿り、ある者は船で西海
へと逃れたという。この合戦を「能登原合戦」と呼ぶ 

 

教経が弓を掛けていた松は、その後地をはうような形の
巨木に成長し 「弓掛松」と呼ばれた教経の射掛けた
矢の一本が田島の小島に刺さり、
やがて根をおろして
竹が生い茂った。この島を「矢の島」と呼ぶようになった。
江戸時代の「西備名区」に能登原合戦として記されています。
昔から白鷺が群生し、矢に用いる竹が繁殖する島と知られ、
福山藩へ度々 矢竹を送っていました。田島の内浦には
那須与一宗隆の陣跡を伝える那須堂があります。大浦の
善正寺には那須与一の陣中守本尊が秘仏として安置され
ています。

能登原八幡宮

1月3日10時予定

能登原お弓神事を待ちます。

 

男びなと女びなを担ぎ

地区内を巡回、繁栄を祈った。

 
享保9年(1724)建立
和泉(大阪府南部)石工の吉三郎によって造られた。

能登原八幡神社鳥居  

10時の予定 少し遅れて始まりました。

能登原お弓神事

源平の昔、

平能登守教経が能登原へ布陣したことに由来する

と伝えられ、 新しい年の平穏を祈願するものです。  

「先弓」「後弓」の2名の射手が裃・袴姿で弓を射る神事です。
約20m離れた直径90cmの的をめがけ2人が16本の矢を
放ちます。

 

 

平家の狼煙台(のろしだい)と伝える「のとんど」もある。

能登原とんど」の飾り 「」「弓矢」あります。

能登原という地名は能登原守教経に由来。

 

横倉(平家谷)の 「平家谷つばき園」 「福泉坊のしだれ桜」 「平家谷花しょうぶ園」 

リビングふくやま 2023・7・7 平家の隠れ里 沼隈町 平家谷

観光地 案内板ある。平家谷つばき園 平家谷花しょうぶ園
平家の武将主従が隠れ住んだ地 関連のある地名
鐙峠(あぶみたわ)、乗越、見張り所、弓場、的場、帯刀場、館。
05/1/8(土)沼隈町中山南横倉川沿いに平家谷へ。八日谷
貯水池のところから平家谷に入り、神社の垂が赤にかわる。
  八日谷の刀岩八日谷は能登原合戦で敗れ
た平家の武者たちが八日間隠れ潜んだ谷間 
  05/1/8(土) 沼隈町中山南横倉川沿いに平家谷へ。
八日谷貯水池のところから平家谷に入り、神社の垂が
赤にかわる。
八日谷の刀岩
八日谷は能登原合戦で敗れた平家の武者たちが
八日間隠れ潜んだ谷間 
   横倉は 狭い道で馬の鞍が横向きになったところから名付けられた。
浄土真宗 福泉坊


平 通盛(みちもり)の妻 小宰相の局の墓がある
小宰相の局
藤原則方の娘で、鳥羽天皇の皇女で、のちの上西門院に仕えていました。
宮中一の美女。

 赤幡(あかはた)神社

古くからこの谷では、白を避け 

赤を尊ぶ風習が残り「白さぎさえも舞い下りず」

とまで記されている

  通盛神社  創建は建久三年(1192)

平 通盛(みちもり)(本名 公盛)平 清盛の弟の教盛(のりもり)の
長男
で、久安五・六年(1150)頃生まれたと思われ、
能登守教経(のりつね)は弟
です。旧暦8月13日の祭礼には、
平家蟹
が能登原の海岸から山をよじ登って参詣に来たと語り伝える。
 

 平家一門の墓 通盛神社境内

通盛に蛭(ひる)が吸い付いた時、「落人となれば、汝まで我をあなどるか」
と、蛭を取り捨てた。 以来、この地の蛭は今も人の血を吸わないという。
  

 

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関連サイト

「塩」「はきもの」の松永町から沼隈町