音戸の瀬戸 2004/1/8(木) 広島県安芸郡音戸町
海峡のまちを散策。約3時間。健康への道100選の長尾峠は荒れていました。
広島呉道路 クレアラインで呉市 呉市営バスで音戸町に。乗り継いで約1時間。
03/11/5 オープンした 半べえ温泉で疲れを癒しました。夕方は送別の陣中会議しました。
2013/3/27(水)
第2音戸大橋(492メートル) 3月27日に開通。総工事費約80億円。愛称は「日招き大橋」。
全国4番目の長さのアーチ橋になる
平家ゆかりの地
2012年NHK大河ドラマ 平清盛
05年のNHK大河ドラマは「義経」。源氏と平氏の攻防の中で、義経がどう生きたのか。
広島県内には平家ゆかりの地たくさんあり、往時を垣間見ることできます。
厳島神社 (佐伯郡宮島町) |
平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168)ごろには社殿が造営された。 平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多くの貴族を始とする人々の 知るところとなり、社運はますます盛大になった。京都からは、皇族、貴族が訪れ、 当時の平安文化が積極的に取り入れられた。舞楽が始まったのもこの時代。平家文化の華麗さを 現代に伝えている。 |
警固屋 (呉市警固屋) |
音頭の瀬戸開削の時、警護の武士がいたことから警固屋の地名が残っている。また、 警固屋は食料を集めた食小屋(こげや)であるともいわれる。 |
音戸の瀬戸 (安芸郡音戸町) |
平清盛の音戸の瀬戸開削の伝説が残る。岩礁の上に、清盛をまつる清盛塚があり、 毎年旧暦の3月3日には、清盛祭が行われる。音戸の瀬戸をまたぐ音戸大橋は、 らせん型高架橋とループ式道路を組み合せた珍しいもの。音戸公園には、 平清盛日招(ひまねき)像もある。日招像は、旧海軍の砲台を台座としている。 |
御手洗 (豊田郡豊町) |
平清盛がこの地に流れつき、手を洗ったことが御手洗の地名の由来ともいわれる。 |
平家伝説地 (沼隈郡沼隈町) |
<能登原>この地で源平合戦があったと伝えられる。 能登原の地名も平家の武将の華・能登守教経に由来する。 <横倉>能登倉の戦いに敗れた平家は、壇ノ浦へ向ったが、 一部は横倉の谷あいに安住の地を見いだしたと伝えられる。 |
鞆の浦 (福山市鞆) |
重盛、知盛、教経に斐忠次郎が操船術を伝授し、平家水軍を育てた。 |
敷名泊 (沼隈郡沼隈町) |
平安時代、平氏をはじめとする都の貴族たちの厳島詣が流行したころ、 沼隈の入江敷名泊で船を降り休息した。当時は、商業ルートの港としてもにぎわった。 |
庄原の敦盛さん (庄原市) |
庄原地方には古くから平敦盛を歌った「敦盛さん」が歌われている。 人々が集まるとその余興に歌われ、正月になると家々をまわって歌う「門付」歌も「敦盛さん」。 敦盛自身か、それともゆかりの者がこの地に縁があったのか? |
平家ガニ | 瀬戸内海には平家の武者の顔をしたカニがいる。 伝説によると、平家の亡霊のしわざとか・ |
清盛塚
音戸の瀬戸きり開いた平清盛が、人柱の代わりに一字一句の 04/3/13
オープン |
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音戸の瀬戸
約八百数十年前、平清盛が切り開いたと伝えられている。今は、 |
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音戸渡場 | |
音戸の渡し
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路地裏 音戸海峡沿いの道に並行して続く旧道は左右から軒が迫りどこか 街道の面影がある。 五勝楼 安芸郡音戸町引地1丁目4番15号 |
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法専寺 安芸郡音戸町引地1丁目4番22号 法専寺は、毛利家の出、僧西善が天台宗を開き、後、 浄土真宗に改められたと伝えらている。 この寺は、天正4年(1576)の石山の合戦に、 毛利水軍に兵糧を送ることを応戦し、 その時に使った幟の錘が残っている。また、 石垣は、お城のように「忍び返し」がついていて、いざ、 という時は、 城の役めを果たすこともできた。 江戸時代は、城のようなものは造られない ので、藩主からおとがめもあったが、 とくに許されたと伝えられている。 |
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法専寺の武者返し |