江戸時代の中継貿易港 御手洗    広島県豊田郡豊町(大崎下島) 2004/5/28(金)

07/2/16(金) 「美しい日本の歴史的風土百選」に選ばれた。

江戸時代の港町
見たらいい町、御手洗(みたらい) マップ片手に 木々が緑濃くなり暑い日に歩きました。

バクダッド近郊 フリーの2邦人記者襲撃死亡。 バレー男子、五輪逃す。

5/29(土) 中国地方梅雨入り (例年より早い)

 

フェリー代4020円(5m未満)、竹原〜白水・明石〜小長 合わせて運賃470円(一人)。

行程
大長(おおちょう)港→江戸の町家→潮待ち館→若胡子屋跡→金子邸→天満宮→乙女座跡→

七卿落遺跡→大東寺→住吉神社→歴史の見える丘公園→満舟寺→大長港

平家ゆかりの地

2012年NHK大河ドラマ 平清盛  

05年のNHK大河ドラマは「義経」。源氏と平氏の攻防の中で、義経がどう生きたのか。
広島県内には平家ゆかりの地たくさんあり、往時を垣間見ることできます。

厳島神社
(佐伯郡宮島町) 
平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168)ごろには社殿
が造営された。平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、
多くの貴族を始とする人々の知るところとなり、社運はますます盛大になった。
京都からは、皇族、貴族が訪れ、当時の平安文化が積極的に取り入れられた。
舞楽が始まったのもこの時代。平家文化の華麗さを現代に伝えている。 
警固屋
(呉市警固屋) 
音頭の瀬戸開削の時、警護の武士がいたことから警固屋の地名が残っている。
また、警固屋は食料を集めた食小屋(こげや)であるともいわれる。 
音戸の瀬戸
(安芸郡音戸町) 
平清盛の音戸の瀬戸開削の伝説が残る。岩礁の上に、清盛をまつる清盛塚
があり、毎年旧暦の3月3日には、清盛祭が行われる。音戸の瀬戸をまたぐ
音戸大橋は、らせん型高架橋とループ式道路を組み合せた珍しいもの。
音戸公園には、平清盛日招(ひまねき)像もある。日招像は、
旧海軍の砲台を台座としている。
御手洗
(豊田郡豊町) 
平清盛がこの地に流れつき、手を洗ったことが御手洗の地名の由来ともいわれる。 
平家伝説地
(沼隈郡沼隈町) 
 <能登原>この地で源平合戦があったと伝えられる。
能登原の地名も平家の武将の華・能登守教経に由来する。
<横倉>能登倉の戦いに敗れた平家は、壇ノ浦へ向ったが、
一部は横倉の谷あいに安住の地を見いだしたと伝えられる。
鞆の浦
(福山市鞆) 
 重盛、知盛、教経に斐忠次郎が操船術を伝授し、平家水軍を育てた。
敷名泊
(沼隈郡沼隈町)
平安時代、平氏をはじめとする都の貴族たちの厳島詣が流行したころ、
沼隈の入江敷名泊で船を降り休息した。当時は、
商業ルートの港としてもにぎわった。
 庄原の敦盛さん
(庄原市)
 庄原地方には古くから平敦盛を歌った「敦盛さん」が歌われている。
人々が集まるとその余興に歌われ、正月になると家々をまわって歌う
「門付」歌も「敦盛さん」。敦盛自身か、それともゆかりの者がこの地に
縁があったのか?
平家ガニ 瀬戸内海には平家の武者の顔をしたカニがいる。
伝説によると、平家の亡霊のしわざとか・

農船


出作(ほかの島で農作業をすること)のための船。
みかんの渡り作に使った純木造船  

  見たらいい町、御手洗(みたらい)町。

大長みかんの島。

下関と肩を並べた港町。

瀬戸内海のヘソ。

江戸時代の風待ち、潮待ち港があった島。  

観光交流センター

あまりの暑さ アイスクリーム ほおばる。  

   見たらいい町

町並み。

江戸の町屋。

  若胡子屋跡

江戸時代の茶屋跡です。御手洗いは7里7島5里5島と呼ばれた
広島県の島々の中でも古くから遊女の港として船人たちに広く
知られ彼らの旅情を慰めてきたところです。
とくに寛文12年(1672)河村瑞軒の「西回り航路」の開発にともなって
北陸能登あたりから米を積んで瀬戸内海を航海する北前船(千石船)、
また四国・九州の諸大名の参勤交代の船団や長崎奉行の往来、
オランダ使節や琉球使節の「江戸上り」など多くの船が潮待ち風待ちの
港として利用するようにりました。
享保〜宝暦(1716〜1763)の頃、広島藩から免許された茶屋が、
この町に4軒ありました。若胡子屋・藤屋・境屋・海老屋です。
中でもこの若胡子屋が一番大きく最盛期には100人以上の遊女
をかかえていたといわれています。

 
遊女の最高位にある太夫(たいゆう)のおいらん道中は三本ハマの
黒塗下駄、べっ甲の三枚櫛や金銀のかんざし、刺しゅう入りの
うちかけ、という豪華さで、一対の箱提灯を先に禿(かむろ)が付き添って
歩いたということです。


熊本藩の細川越中守などは一夜千金のお金をおとしたたといわれて
います。又、オランダ商館のフィッセルも此処、若胡子屋の酒席に列席
したと日記にのこしています。遊女たちは江戸の吉原や京都の島原と
同じように高い教養
もそなえていました。  

  住吉神社造営のときに寄進した玉垣には「モロコシ」「みちのく」
「花むらさき」「ひな巻」「若桐」など遊女の源氏名が刻まれています。
この若胡子屋には「おはぐろ」にまつわる遊女の悲しい物語
あります。黒ずんだ壁の手形のあとは既に消えうせたが彼女たちの
つれづれのみずくきの跡が二階の壁に残っていて今に何かを語りか
けているようです。
豪壮な表造り、蓮子窓(れんじまど)奥座敷の屋久杉の天井板、
薩摩藩からもって来た桜島の溶岩を練り込んだ土塀、ヒョンの樹など
昔の面影を今にのこしています。境内に遊女「やむらさき」の墓があ
ります。

夏草や 島に悲恋の 遊女墓    蚊 居 
   金子邸

幕末期に長州藩と広島藩が軍事協定締結。

  天満宮


御手洗という名の起こりは、神功皇后が三韓侵略のとき、
この地で手を洗われたというところから、この名が付けられたといわれ、
古くから神功皇后伝説があった。  

  菅公の歌を刻んだ大きな石碑


我たのむ人をむなしくなすならば 天か下にて名をやなかさん  

   元映画館の洋館

乙女座

  七卿落遺跡
文久三年8月16日、公武合体派のクーデターによって破れた討幕派の
公卿のうち、三条実美ら七卿が長州兵に守られて都落ちしたことは余り
にも有名です。 元治元年長州藩は真木和泉守を先発として兵を京都
に進めましたが蛤御門の変で敗れました。このとき三条実美、
三条西季知、四条隆詩、壬生基修、東久世通橲の五卿は京都における
長州の勢力挽回と共に入京しようと長州を出て多度津(香川県)まで登
っていましたが、京都の敗北を知り長州にひき返しました。その途中、
7月22日から24日にかけて、この竹原屋(庄屋)で旅の疲れをいやした
ものです。尚、この竹原屋には維新のころオランダ商館のテレ−マン・
パクという人が駐在して薩摩藩などと武器の密貿易もしていました。又、
文久3年から慶応元年に至るまで広島藩から金十万両を借り、
その返済方法として、米、銅、鉄、操綿などを御手洗で薩摩藩へ
渡しました。(御手洗交易)このように御手洗港が明治維新の陰の舞台
となったことは歴史家の知るところであります。
昭和15年2月27日 広島県史跡指定 
   恵美須神社


御手洗の中心地に祀られる 広島県指定重要文化財

 浄土真宗本願寺派

大東寺:大東亜戦争にちなんで名づけられた。

大きなクスノキ
樹齢300年・高さ25m・目通り周囲5m。

迦陵頻伽(かりょうびんが)彫ってある欄間

   船つくり
   干砂子波止(大防波堤)
  住吉神社
文政12年(1829)5月26日、隣接する干砂子波止(大防波堤)
が完成しました。大阪の豪商 鴻池が堺の住吉神社の本社を
そのまま正写したものを寄進。燈篭や玉垣は 大阪商人や全国
の問屋連中をはじめ遊女の寄進による
 
   03/12/7(日)
遊女の墓約100基を移築した
「重伝建選定記念公園」(おいらん公園)
江戸時代、船乗りを遊ばせるお茶屋が4軒あり、多いときで百数
十人の遊女がいた。貧しい家から売られて来ることが多かったという。
公園建設のきっかけは急傾斜地の崩落を防ぐ工事中、108基の墓が
見つかり、その半数が遊女のものと分かった。以前からあった墓と一緒
に景色のいい高台に移してあげようと、実行委が結成され、
寄付を集める中で土地を提供して
くれる人も現れた。完成した公園には、
遊女の叫び」と刻まれた供養塔も建立された。

火の車の塔
若胡子屋先祖の供養塔で伝説「火の車」の舞台

水彩画を描く女性3人。

  歴史の見える丘公園  のり面に花壇。 遊女の塔
その昔、潮待ちの風待ちの
   天然の良港に咲いた遊女たち

「たのみます 華のこの世も 後の世も」

の願いも空しく、故郷親元を離れてこの地に散り、桃の咲く丘に
葬られて、いつの頃からか土に埋もれ、大樹の根からまれて、陽の光
を浴びることもなく幾星霜の間眠ったままの遊女の墓であった。
弁天社の丘の辺りの急傾斜防止工事の際、古くは享保15年(1730年)
頃から江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それにかかわる人たちの
墓が百基に余って発掘された。爾来その隣地に墓石を集め供養碑を
建て回向をたむけた。この度人権思想啓発の一助にと多額の寄付の
申し出があり、これを受けて早速「遊女供養碑建立実行委員会」を発足
した。この趣旨に賛同する地元の人々を始め島外からも多数の方々の
善意募金に依って、この地の土となった遊女を偲び、海の見える
風光明媚なこの地を選定し、構想新たに移築した。 
  南朝山 満舟寺


石垣は 豊臣秀吉の四国征伐の際の前線基地として、

加藤清正が築城したものと伝えられおり、戦国時代の城の特徴である
「乱れ築き」の立派な石組みで造られています。

 
   琉球(沖縄)使節の筆跡満舟寺額


嘉慶12年丁卯春(中国清時代の年号)

 琉球の使節が将軍の代替わりを祝う途中度々停泊。

   大長港・ゆたか海の駅

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