一乗山城跡/常国寺 訪ね歩いた 福山市熊野町 2004/6/18(金)
2021年(令和3年)4月24日(土)2022年(令和4年)11月7日(月)
第2回 福山観光ガイド団体交流会
2022年(令和4年)11月7日(月)
@熊野町歴史ふるさとガイドによる常國寺と将軍塚の解説
A常國寺住職による本堂解説と義昭遺愛の品公開
Bガイド交流会(活動発表及び意見交換)
題 収得方法?
知っとる検定 向上心・人間興味 お客さん笑わす
ガイドは先生でない お客さんに教えてもらう
皆既月食
11・8(火)午後7時過ぎから約1時間半にわたって、全国の広い範囲で観察できる。
月が遠く離れた天王星を隠す「天王星食」も皆既月食中に起こり、
ダブルの天体ショーとなる。日本ではなんと442年ぶりです。
福山市天然記念物
常国寺のケヤキ 三本 1962年3月31日指定
このケヤキは、市内ではめずらしい大きさで、
目通り周囲4m、高さは約30m。さらに、これに
準ずるものが二本あります。
ケヤキは、本州・四国・九州の山野に自生する
ニレ科の落葉高木で木目が美しく、湿気にも強い
ため、家具や建築用材等に、ひろく用いられて
います。なお、この樹木は老木ですから、近づく
時には、頭上には注意してください。
江戸時代になると、常國寺は中本寺(中本山)として
『東西二支院(福山市寺迫壽量寺と同市大富法縁寺)、
山内六ヵ坊(竹之坊・山本坊・中之坊・松之坊・岸之坊・谷之坊)、末寺十八ヶ寺』
と称され、中国地方を代表する寺院となる。
慶長九年(1604)、七世中興寂照日保上人が入山。日保上人は、一乗山城五代城主渡邊景の三男、
八世中興通天院日感上人は、福山藩主水野勝成の三男である。常國寺は、日保・日感両上人の頃
隆盛し、現在の本堂・開山堂をはじめとする、仁王門・唐門・鐘楼・三十番神堂・三光堂・喜正堂・
鼓楼・半鐘楼等の七堂伽藍が整う。
常國寺飛地境内には、三十余の堂宇が点在し、各講中組組織のもと法要が営まれる。
今日でもなお、「皆法華」である熊野の地は、講組織(旧山ヵ村、十三地区、三十七
講中)と、「講中題目」の伝統を重んじ、日親上人法華弘通以来の題目信仰を、誇り
をもって相続している。
※山内六ヶ坊と東西二支院について
・竹之坊(顕壽院)開基 玉蔵院日演上人 天正十六年(1588)九月二十日遷科化
(日演上人三十歳にて三原市壽徳寺開祖二世となり再興、九十一歳にて遷化)
・山本坊(観行院)開基 常蔵院日應上人 天正十二年(1584)三月二十日遷化
(日應上人御調郡本照寺中興開山へ)(当坊・島根県八束郡に移り常妙寺と改称)
・中之坊(圓城院)開基 正善院日實上人 寛永十一年(1634)九月二十一日遷化
(日實上人竹之坊三世より当坊を開基、のち福山市顕政寺開山へ)
・松之坊(實相院)開基 常隆院日養上人 元和八年(1622)正月十一日遷化
・岸之坊(松蔵院)開基 常隆院日正上人 元和五年(1619)正月五日遷化
・谷之坊(本化院)開基 常圓院日昌上人 文禄四年(1595)八月四日遷化
(当坊・香川県観音寺市に移り常行寺と改称)
◎大正十五年(1926)四月二十五日、六ヶ坊を本寺に併合。本寺に一老職一名、役僧
若干名を置き、その居所として、山本坊及び竹之坊・松之坊を使用。
・東院 薬王山壽量寺 開祖 寂照院日保上人 寛文四年(1664)二月十七日遷化
(法灯は第三十世を継承、現在に至る)
・西院 四大山法縁寺 開基 常住院日祗上人 寛永三年(1626)十月二十三日遷化
(法灯は第三十四世を継承、現在に至る)
鞆幕府ゆかり地を巡る
日程 2021年(令和3年)4月24日(土)
4月25日(日)参議院広島県選出議員再選挙
4都府県 緊急事態宣言 5月11日まで
福山駅【9:30】=鞆の浦(約90分)名物ガイドによる「鞆幕府コ−ス」散策
バス駐車場⇒地蔵堂⇒安国寺庭園 枯山水式庭園⇒釈迦堂⇒小松寺⇒山中鹿之助首塚・ささやき橋伝説
⇒鞆の浦歴史民俗資料館⇒ 鴎風亭(昼食)瀬戸内海の海の幸を堪能できる昼食 土産:保命酒羊羹
=常國寺(約90分)足利義昭遺愛の品や住職による解説=福山駅【15:30】
廣昌山定親院常國寺
常國寺は、備後国山田庄(現・福山市熊野町)の領主、渡邊越中守兼が、
文明年間(1469〜1486)、宮近門民部左衛門慰藤原信定の遺志を受け継ぎ、
自邸を久遠成院日親上人(1407〜1488)に奉献し、法華経広布の寺院として、
建立された。
開祖檀越渡邊兼は、強情な信仰を持ち山田庄を支配した。その宗教政策は
領内寺院および領民全てを法華経(日蓮宗)とし、従わない者は追放する
という徹底したものであった。所謂「皆法華」である。渡邊氏は一乗谷城
を築き五代(兼・房・高・元・景)にわたりこれを継承した。
天正四年(1576)、織田信長と対立し将軍職を事実上解任された室町幕府
一五代将軍足利義昭は、毛利氏を頼り備後鞆の津に上陸した。毛利輝元は、
一乗山城四代城主渡邊民部少輔元、渡邊四郎右衛門景(元の子)を将軍警護役
に任じて処遇に当たらせた。義昭の備後流寓(十二年)のうち三年間は
常國寺が将軍御座所として使用された。事実上の将軍解任と言っても、
義昭は征夷大将軍のままであり、この間を地元では「鞆幕府」と呼ぶ。
現在常國寺には、唐門(将軍門=唐破風四脚門)、足利義昭胴肩依、
『足利義昭昭胴肩依由来書』、『足利義昭御内書』、『真木島昭光書状(義昭の近臣』
等が当時を偲ばせる史料として格護されている。
将軍義昭の慶長二年(1597)、遺言により文骸と遺物が埋葬(本堂裏に将軍塚と
五輪供養塔が建立)され、また蒔絵硯箱、唐扇子、赤銅鶴香炉、金色鶏香炉、
古紫泥茶出、種子島鉄砲など九点の遺品が奉納される。常國寺は足利幕府崩壊という、
歴史の大きな動きに深く関わったのである。
「山手一里塚跡〜松永」西国街道を歩く [津之郷]には将軍足利義昭の供養塔 足利義昭御殿場屋敷跡がある
坪生(つぼう)古道散策 [深津]に 伝 足利義昭居館跡ある 「蔀山(しとみやま)」
[鞆の浦] 鞆津御座所 天正4年(1576)2月、紀州由良より西下
[熊野] 一乗山城 天正10年(1582)渡邊景に迎えられて移る
[津之郷] 天正13年(1585)2月、御台所と数人の臣下と移る
天正15年(1587)3月、秀吉の九州平定に同行
天正15年(1587)、秀吉の計らいで大坂に帰る
[深津] 天正19年(1591)1月、秀吉の北条攻めが終わり、毛利輝元と共に
再び備後に入ると伝わる
別名黒木城ともよばれ、沼隈半島の南東部熊野盆地に存在する城跡で、
中世の豪族渡辺氏の居城である。
渡辺氏は、鎌倉時代末期に山田荘に入り、後足利氏に属し勢力をのばした。
一乗山(七面山)に築城するのは渡辺越中守兼(かねる)の時代といわれ、
入城したのは文明年間(1469〜1486)とも永正年間(1504〜1520)ともいわれる。
またこの頃兼は日蓮宗に帰依し、菩提寺常国寺を建立した。
城は北へのびる尾根を利用し、南は掘切、北は竪堀で区画し、
この間の頂部30×20mの南半分を櫓台状にした平坦面を設けている。
郭【くるわ】の跡や、石垣、井戸等もよく残存している。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦に敗れ、兼の曽孫景は一乗山城を退き、廃城となった。
麒麟(きりん)がくる 大河ドラマ 2020(令和2)年1月〜
足利義昭役 俳優:滝藤賢一
鞆幕府とは
戦国時代、織田信長によって擁立された室町幕府第15代将軍の足利義昭は、やがて信長と対立。
1573年に京都を追われ、流浪を重ねながら最終的に毛利輝元を頼り、鞆に身を寄せます。
一般的に義昭が京都を離れた時点で室町幕府は滅んだとされますが、
義昭はその後も征夷大将軍の地位にあり、1576年に鞆で政権を構えました。
また毛利輝元を副将軍に据え、幕府直轄下の寺院を支配して援助を得るなど、
将軍としての影響力をもっていました。近年の研究では、諸説ありますが、
義昭が鞆を去る1587年までの11年間の政権を「鞆幕府」と呼んでいます。
室町幕府最後の将軍足利義昭とは
父は第12代将軍・足利義晴。兄の第13代将軍・義輝が暗殺され、
その後信長に擁され上洛し、第15代将軍になりました。
やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を形成。
一時は信長を追い詰めるも、京都から追われ、鞆に身を寄せました。
鞆から京都に戻った後は翌年に将軍職を辞して出家。
朝廷から准三后という高い位を受け、
1万石を拝領。晩年は御伽衆(おとぎしゅう)
として秀吉の話し相手を務めていました。
鞆では各地の大名に御内書(将軍が発する文書)を下すなど精力的に活動。
鞆の浦を一望できる鞆城を居館としたほか、いくつか周辺を移転しており、
1582年頃は鞆近くの常国寺に滞在しました。常国寺には御内書をはじめ、
義昭の遺愛品などが数多く残されています
左・・一乗山城跡
右・・常国寺 熊野水源地 福山の近代水道 水源として |
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一乗山城 本丸跡 石組み 横井戸跡 あった |
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常国寺 仁王門
常国寺は文明年間(1469〜1486)日蓮宗に帰依した |
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唐門(将軍門)
正面巾3.3m、一間一戸の四脚向唐門【むかいからもん】、 |
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足利義昭の紋所である九七の桐が彫られた板。
再建年代は元禄頃で、 正面桟唐戸【さんからど】は |
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鐘楼
柱は面取り角柱で内転びとなっている。 |
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楷(かい)の木
中国山東省済寧市曲阜にある孔子の墓所「孔林」には、 弟子の子貢が植えた「子貢手植の楷」の子孫が今も 美しい姿をとどめている。 日本へは大正4年、白澤保美博士が初めて孔林から種子 を持ち帰り、育てた苗を各地に孔子廟や儒学に関わりの 深い場所に配布した。その中の2株が、岡山県閑谷学校で 今も見事な紅葉を見せている。 しかし、楷は雌雄異株のため日本で自然に殖えることは なかったが、昭和38年に、朝比奈貞一博士が人工交配に 成功し、多くの種子が得られるようになった。 平成に入っても孔林の楷は各地で育てられ、ここに植えられ ている2本の楷も足利市から贈られたものである。 足利市の本貫地である栃木県足利市には足利学校があり、 そこに大正時代の楷の木が植えられている。 常国寺は、足利幕府最後の将軍義昭と関わりが深いため、 その縁でこの地に楷の木を植えることにした。 福山市教育委員会 |
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