赤坂〜津之郷 歴史ウォーク 2008/3/15(土) 福山市赤坂町・津之郷町
行程 約8km
備後赤坂〜イコーカ古墳〜水越峠〜法性寺〜坂部四号古墳〜本谷1号古墳〜親水公園(本谷川砂留)〜
福山SA(昼食)〜惣堂神社・足利義昭御殿場〜本谷遺跡〜田辺寺〜備後赤坂駅
13日: 円高 12年ぶり99円台・日経平均株価 2年半ぶり安値・NY原油110ドル突破。 アメリカの景気懸念し
日本銀行総裁人事:不同意となったことを踏まえ、政府17日に再提示。
14日:中国チベット自治区ラサ デモ激化「10人死亡」
国際宇宙ステーションに設置された日本初の有人宇宙施設「きぼう」に土井隆雄さん船内保管室に
イコーカ山古墳 福山市赤坂町
JR備後赤坂駅東の国道2号の南に、「イコーカ山古墳」がある。内部主体は未発掘のため不明である。
現状は円墳であるが、旧地形図では東北に丘が延びており、前方後円墳とも考えられる。
周辺の数ヶ所に古墳が点在し、古墳時代中期以降の豪族の墳墓と推定される。
古墳の西裾に頭部の相輪の欠けた「宝筺(ほうきょう)印塔」がある。地元の伝承では足利義昭の墓とも
供養塔ともいわれ、室町末期の形状を今に伝えている(『福山誌料』『西備名区』『沼隈郡誌』)。
『中国行程記』には「当所沖に広い大池あり、この池を埋め、その所開作すべきとて、池奉行当所に出張、
久しく埋めさせしに、深さ知れざる池なれば、埋めることかなわず、よってこの山にて切腹す、
ゆえに宝筺印塔を池奉行の墓という」とあり、池があったとする伝承を伝えている。
宝筺印塔(ほうきょういんとう) 池奉行の墓という |
|
イコーカ山古墳 | |
現状は円墳である |
厳島神社 |
田辺寺 福山市津之郷町
「廃和光寺」は養老5(721)年に行基により創建された伝え、田辺寺南の畑地から多数の遺物が発掘された。
塔中心楚石は当寺境内に移されてい残る。県史跡に指定されているが、正確な寺域や伽藍配置や塔の
位置も分かっていない。
永禄5(1562)年に津之郷串山城主の田辺光吉は、和光寺を再興し家名を用い「田辺寺」(でんぺんじ)とした。
天正15年3月15日に、九州の島津征伐に向かう秀吉は、当寺で足利義昭と対面しお互いに太刀を贈答した。
対面後に秀吉の許しを得て帰京した義昭は、出家し昌山道林と名乗り准后の処遇により1万石を与えられた。
『水野記』には「天正13(1585)年に至るまで無縁の地と為す。時に同年12月13日義昭将軍津之郷に移る。
翌年14年に寺領八貫五百を寄す。其後豊臣秀吉この地を領すること二年也。又毛利家この地を領し、
而して寺領を没収する也。」と記されている。
「田辺寺」(でんぺんじ) | |
塔中心楚石
元は南の畑にあった。九輪の破片や風鐸も出土した |
|
足利義昭と対面 |
坂部古墳群 福山市津之郷町
津之郷の平野部北側、南に派生する丘陵には平野を見おろす形で、数多くの古墳が存在している。
坂部には4基の古墳が確認されているが、いずれも横穴式石室を有する後期古墳です。
坂部の里 古墳の一つ |
坂部四号古墳 | |
坂部四号古墳 | |
坂部四号古墳 |
本谷1号古墳
古墳が一番多い県は? 兵庫県 1万5千〜6千個 広島県で一番多い所は? 半分が 三次・庄原 一番大きい古墳は? 東広島市にある三ツ城古墳 |
別所砂留を見に行こう!福山のマチュピチュ!?2015/12/6福山初の選奨土木遺産に認定
大谷山(401.3m)水系でも砂留を確認
親水公園(本谷川砂留)
塩田で薪がいる。 砂防ダム。 |
パヴァリエ ローズマインド福山 福山SA 上り線
パヴァリエはSAのブランド名で、バラエティに富むパーキングの意味の造語。
コンセプト「ばらと陽光溢れる瀬戸内憩いのエリア」にあわせ、
外壁も内装も「ばら」をモチーフとしたデザインにし、ばらのお土産品を充実させて、
ばら園(約880u1千本)もリニューアルした。
福山SA 上り線(昼食)12時〜13時10分 お客さ駐車場の東側には 大歳神社・隼人神社周りには小さな2基の古墳 福山ラーメン 750円 簡易型インターチェンジ(スマートIC)の設置を2017年後半に予定。 福山東IC―福山西IC間の中間点にあり、 国道2号まで南に約2キロと近い。 スマートIC設置で福山東IC周辺の渋滞緩和が期待できる。 |
|
ばらソフトクリーム 250円 |
|
2013年(平成25年)6月27日、 全面改装(総事業費3億4600万円) 「パヴァリエ ローズマインド福山」として リニューアルオープンした。 パヴァリエ バライティに富むパーキングの意味の造語。 ばら園:約880m2 1千本 |
御殿畑 福山市津之郷町
津之郷小学校の北に、「惣堂神社」が鎮座する丘がある。祭神は猿田彦命であり、『備陽六郡誌』には
祭神を「将軍足利義昭」としている。当社の東側の緩い傾斜の畑地を「御殿畑(ごてんばた)」といい、
鞆の浦からこの地に移った室町幕府最後の将軍足利義昭の居館跡と伝えている。
かつて義昭に仕えさらに追放後に織田信長の許に下った細川幽斎も、天正15(1587)年7月に九州からの
帰途に「備後の津の公儀御座所」に参上したと自身の紀行文に記している。
沼隈郡北西部で行われる「ひんよう踊り」は、豊作と無病を祈願し奉納されるが、当社のものはキリコを
頭に置いて踊る。一説に足利義昭の霊を慰安するもので、現在毎年10月第2土曜の夜に坂部の稲荷神社
と当社から踊り出し、夕倉の三島大明神に移動し奉納されている。
惣堂神社 | |
御殿畑(ごてんばた) | |
菜の花 | |
本谷遺跡
13時50分 田辺寺で解散。 |
|
水越峠
14時28分 JR備後赤坂駅 乗車 |
関連サイト