西国街道ぶらり旅 新南陽〜戸田  08・11・22(土)山口県周南市

いい夫婦の日  44人の旅人 防府から 地元の人参加ありました。

行程  約10km
集合10時 10:10出発 JR新南陽駅→勝栄寺→山崎八幡宮→浄土宗 浄真寺→

平野町→曹洞宗 祥雲寺→温田峠・温田一里塚跡・温田観音

→曹洞宗 真福寺→福川本陣跡→御姫開作→夜市(やじ)一里塚跡・若山城跡

→矢地市→JR戸田(へた)駅 上り15:03発 乗車



10時10分 JR新南陽駅出発
勝栄寺

毛利元就公
教訓状発祥の地

豊臣秀吉が朝鮮出兵した文禄の役(1592)
この寺に泊まった。



勝栄寺の板碑
延徳3年(1491)銘の板碑がある

碑前の手水鉢は五輪塔の水輪を削ったもの

勝栄寺の土塁
永源山公園

風車 回ります

タバコ屋のショーウィンドー

ねこが二匹 日向ぼっこ

左は煙草を二箱 持っています

旧山陽道道標

右 上かたみち

左 下のせきみち

山崎八幡宮
学問の神として庶民に信仰されている

社殿は寛政2年(1790)の建立

ここで全体写真撮りました

神社の横に新市の市戎があります
浄土宗 浄真寺

弘治元年(1555)の開創と伝わる

本尊は木造阿弥陀如来立像

一石五輪塔と曼陀羅板碑



平野町
「平野」は古代山陽道の周防5番目の駅であった
最近まで
「富田かわら」の製造が盛んで、多くの「瓦屋」が
並び積み出された。

曹洞宗 祥雲寺

おまつの墓
天保時代、藩の四白政策に基づき開作事業が
盛んであった。道源開作として進められたが、
最後の潮止めが成功しなかった。人柱として
若い娘「おまつ」が選ばれ、尊い犠牲となって
開作は成功した。

四白(よんぱく)政策
長州藩は瀬戸内海を干拓して開発した。これを
開作と呼んだ。耕地を含めて特産物の生産に力
が注がれたものは、米・紙・ろうそく・塩の四つで
この増産政策を四白政策と呼ばれた。

みかん 実っています
温田(おんだ)峠一里塚跡

「萩御水茶屋所」があった。

頼山陽は福川の塩田を眺めて「賞塩田の詩」を
扇子に書き残している

温田観音

一里塚と並んであります

 

曹洞宗 真福寺

ここで昼食 
会員証「福川本陣イメージ」した
スタンプ押してもらいます

右手で耳を当てている「耳地蔵」と慕われている

しあわせ地蔵尊

 

清酒 男自慢松田本店
8月21日に薩摩を出立、10月2日京都の近衛家に挨拶ののち、夕刻草津に到着した。
草津宿に二つあった本陣の一つ
九蔵本陣に泊まったとされる篤姫

大福帳には、
嘉永6年 10月6日 伏見立
薩州御姫君様  御泊 九蔵

江戸芝の薩摩藩邸に着いたのは
10月29日、当時篤姫は19歳でした。
嘉永6(1853)年9月5日 
徳山藩が地元の庄屋らに布団などの
寝具を用意するよう命じた通達の写し
が見つかった                     

通達には「薩摩中将様御娘御参府として、
来ル九日(中略)同晩福川町御泊」と
記されている。
福川
(ふくがわ)本陣跡
篤姫 嘉永6(1853)年9月9日宿泊した
と御当主から説明聞きました
備中国 矢掛宿でも宿泊
大河ドラマ「篤姫」のモデルとなった天璋院篤姫(1836―83年)が、岡山県矢掛町矢掛の旧矢掛本陣石井家に宿泊したと思われる
篤姫が徳川13代将軍家定に嫁ぐため、薩摩から陸路江戸に向かったとされる1853(嘉永6)年8月から同10月の本陣の宿帳(岡山県立博物館寄託)を解読し、発見した。

福川本陣門

天保9年(1838)に建てかえられた。

JR山陽本線踏み切り渡ります

御姫橋へ向かいます

夜市(やじ)一里塚跡 
何の目印がありません
小瀬川から14里・赤間関へ22里の一里塚

左の山 若山城跡
大内氏の重臣であった陶氏歴代の居城

矢地市

白壁の大きな家 連なっています

JR戸田(へた)

15時4分発 乗車

天候に恵まれた一日でした

富海宿←/福川宿/→徳山宿

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