今津〜尾道高須」西国街道を歩く 
                     広島県福山市松永町〜尾道市  2004/9/12(日) 2015/1/31(土)

 2015/1/31(土)
近世山陽道を歩こう!part4(今津から防地峠まで) 26名参加
行程 約6km
高諸神社(集合 8:45出発)→蓮華寺→陰陽神社→今津村から高須村へ→高須神社→大松の跡→道しるべ→
関の地蔵尊→高須一里塚跡→四つ堂→徳本上人名号石→番所跡(標高110m)→福山・芸州藩境介碑(12:10解散)


蓮華寺 本堂に阿弥陀如来
真言宗西国寺末寺。本尊阿弥陀如来。延歴23年(804年)に弘法大師が
今津に立ち寄り、紀州熊野三社を勧請し三寺を開山。当寺はその一つで、
熊野本宮を形取りしたと伝えられる。江戸時代には脇本陣を務め、西国諸
大名が宿泊した「上段の間」が今も残る。明和年間(1764〜1771年)に火災
で焼失、現存の建物は安永年間(1772〜1780年)に再建された。
副住職から説明   甘酒をご接待 頂きました。

萩藩の絵図方、有馬喜惣太の『中国行程記』 に

「備後尾ノ道ヨリ一里、備中板倉ヨリ十六里」
と記す。

樹齢約300年の榎が植えられていたが、大正13年頃に枯死したと言われる。

高須一里塚跡
 陰陽神社
祭神はいざなぎ神、いざなみ神。陰陽2つの霊石が祀られており、
現在は社殿内の水中に安置してある。
元は田の中の群石のひとつだった。『備陽六郡誌』に「天然自然の造物、
本朝無類の名石なり」と記されている。境内には諸病に効能があるとさ
れるカルシュウム泉があり、古来は多くの人が訪れていた。
西村から高須村
10:20 尾道市東部公民館トイレ休憩

大松の跡
「高須村の大松」として名木であったが、昭和23年に枯死。
文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が九州肥前名護屋に赴く時に、植えさせたもの
と伝わる。
道しるべ
石柱に「右ちかみち」と銘あり。明治になり、尾道まで南側の山波経由で山陽道が
整備されたが、旧道の防地峠経由の方が近道であることを示している。

徳本上人名号石
徳本上人は紀伊国日高町の人で宝暦8年(1758年)生まれ。各地を行脚して独特
の字体の「南無阿弥陀仏 徳本」の碑を多く残していると言われる。また、この地
は蓮如上人が尾道浄土寺を訪れ、その帰りに住職に見送りをしてもらい、名残を
惜しんだ場所とされる。

名号石 右側の石像は浄土寺の住職
 左側は右手で頬を押さえ、歯痛に悩む蓮如上人の姿
と言われている。
 福山藩番所跡  
保存会副会長説明 11:50〜12:10 

番所として 日本で3ヶ所 

 軒下には竹細工
 板塀残っている
福山・芸州藩境界碑

道を挟んで西側に「従是西芸州領」、東側に「従是東福山領」と刻まれ
た境界碑が立っている。

高須村尾ノ道村、また、沼隈郡御調郡の境目でもあった。

 


大正時代に建てられた
西山本館」が、2014/11/21(金)
国の登録有形文化財として新たに登録されることになった

昼食 朱華円 中華そば600円  

土産:桂馬の蒲鉾 天ぷら三色お詰め合わせ 1050円


04/9/12(日)
秋です、稲穂が頭をたれて 実り、赤い彼岸花 など見ながら 福山藩の塩田で栄えた宿場町を散策

総行程 約6km弱

JR松永駅――神村八幡神社――今津一里塚跡――薬師寺――平櫛田中旧宅跡――今津本陣

高諸神社――蓮華寺――陰陽石神社――真田橋――高須八幡神社――関の地蔵尊

高須一里塚跡――JR東尾道駅 

       

JRの線路より北が今津、南が松永 南は塩田があった。


町は七島 架け橋七つ 恋の架け橋 数知らぬ
町は七島 入江の枝に 四十八塩田の あれや塩烟(けむり)」と歌われた
東西15丁(約1.7km)・南北10丁(約1.1km)の松永塩田。


福山藩に帰藩していた本庄重政は干拓事業の指導をし、1656年〜1667年にかけて柳津新田、
高須新田、松永新田に広大な塩田を完成させ、松永の塩の地盤を築きました。

以後300年、松永の塩は福山藩を豊かにし、地場産業として栄えてきましたが、塩業の
近代化と外国塩の輸入に押され、昭和30年代、塩田の歴史は幕を閉じました。

 

残暑。福山の最高温度は33.6℃でした。松永学区運動会 スピーカ大きな音出していた。

11、12日のストライキ回避したが・・・。揺らぐプロ野球界。

JR松永駅から出発。

広島駅から参加:新幹線で三原で乗換え

 
神村八幡神社  今津町3丁目
おやや」の情念
境内に小さな祠 八重明神を祀っている。
伝承   
大明神社 今津町2丁目
境内にある水準点
真向かい NTT構内にあったもの昭和57年移す
今津一里塚跡  福山市今津町5丁目14-12
一里塚の位置:明治時代の地籍図に官有地と記載
北塚 道の側溝辺り 

備後尾道より2里、備中板倉より15里

 区画整理が行われ

何の標識もなく記憶から消えようとしている
 

  吾妻橋東詰めには 宿場を防衛する 
鈎辻の道名残りある
 
今津宿中心筋へ
吾妻橋西詰から宿場筋は約800mです。
この辺りに高札所あった。
宿場の駕籠五、六十台あり
「今津に嫁にやれば杖1本で養うてもらえる」
伝えられほど繁昌した。
塩田で福山藩は豊かになった。
街道沿いには井戸・辻堂・祠等が数多く残されている。
薬師寺
今津の町には新旧の二本の山陽道があり、
両者を結ぶ
路地が縦横につながっている
薬師寺の前の道が秀吉時代の山陽道であり、
江戸初期の尾道の高須の埋立により、
蓮華寺・本陣前
の道が山陽道となっている。

宝暦年間(1750年代)に書かれた「中国行程記」には
「此辺(このあたり)昔海にて汐入て潟(がた)の所寛文年中
(1660年代)開作と成、往古は往還当所の山麓に有之由、
開作巳後(いご)令の新道往還となり」

本尊は薬師如来で東方院といい

大同2年(807)弘法大使の創建という

正面に鐘撞堂のついた山門がある。

境内には芭蕉の句碑がある。

今日ばかり ひとも年よれ はつしぐれ」 
 境内には芭蕉の句碑

各地の俳人による句会が盛んに開かれたという。
頼山陽は「観月の詩」を残している。

平櫛田中旧宅跡
平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(本名:倬太郎=たくたろう) 
井原市西江原町に出生 今津町の平櫛家へ養子。
明治・大正・昭和の三代に渡って活躍した彫刻家。
「鏡獅子」は近代彫刻史に残る名作。
昭和54年 12月30日逝去(数え108才) 

いまやらねば いつできる
わしがやらねば たれがする
98歳の時に書いたもので、
田中が座右の銘にしていた言葉である。
驚異的な長寿の巨匠の心境がよくあらわれている。 

平櫛田中語録
長寿の秘訣を聞かれて
「今日もお仕事、おまんまうまい、貧乏極楽、気長にゆっくり」
昭和40年 大成館中学校での名誉市民章贈呈式で(93歳)
生徒に向って「わしは、まだ30年制作できる材料をもっている」
「自分の好きなことは親が反対してもやれ。やる以上は死ぬ気で
やり通せ」昭和54年12月21日
「わたしはこれから旅に出ます。お供もお弁当もいりません。
後をよろしく頼みます」12月30日 108歳の生涯を閉じた。

昭和37年文化勲章授章式で天皇陛下から
「何に一番苦心せられましたか」
「おまんまを食べることです」

昭和46年帝国ホテルでの100歳の祝宴の席で
「60、70は鼻垂れ小僧、男盛りは100から100から、
私もこれからこれから」
  今津本陣跡
邸内にあった牡丹園は有名で菅茶山や頼山陽などによって、
その美しさが
漢詩によって詠じられ牡丹の本陣とも称されたということです。
今津に宿が設けられたのは
江戸初期の慶長7年(1602)の頃
庄屋河本家が本陣を営んだ。
坂を登ると表門と塀、石垣だけ残っている。
表門は「馬乗り門」と言われた。
乗馬のまま乗り込むところからその名がついた。

明治4年の農民一揆で焼き払われたという。
 

 新羅(しらぎ)王子伝説の地。
高諸(たかもろ)神社  「剱神社」(おつるぎさん)
「古きより申伝えたるは、此浦へ、何時ともなく船一つ流れ来る。
漁夫共之を見、いかなるものならんと彼の船を打ち割りて見れば、
其の中より唐人三人ましましけるが」とある。唐人とは新羅国の
帝らで、日本に来る途中今津の里(現、福山市今津町)に漂着した
ものらしく、土地の庄司、田盛がそれを助けたという。帝は須佐之男
命の生まれ変わりだったと言われ、一夜田盛の枕元に立ち、
剱を授けこれを祭らしたのが、今の剱神社と伝えられている。
御神体は現在も、剱形をした石で本殿の地下にあるとい
う。
素戔鳴尊と剣比古神(つるぎひこのみこと)を祀り
剣大明神とも言います。
松永湾に浮かぶ小島で、手前の池には雁木がある。
満ち潮に参拝し、引き潮で帰る「潮間の市」と呼ばれた。
本殿の周りにはかつての海岸を示す大きな岩が重なっている。
高諸神社のハク(柏)   高諸神社のハク(柏) 
ハクは別名イブキ、イブキビャクシンともいわれ、
庭園樹としても広く植栽されているが、大きいものは極めて
稀である。社殿西南側の岩盤上に自生し、目通り周囲3.7mで、
地上2mで分岐し樹高約10mであり、樹齢約250年 県内有数
の巨木である。またこのハクは針葉がきわめて多く、栄養など
の影響も考えられるが、あるいは針葉の多い園芸品種タチビ
ャクシンの祖先の系統が混ざっているものとも解され、学術上
からも興味ある樹木である。 
蓮華 今津町775

剣大明神の別当寺とし、庄屋河本家の檀那寺でもあった。

そうした事から河本家が本陣、

蓮華寺が脇本陣の役目をはたしていたものらしい。

王子山・・蓮華寺の裏山にあります
新羅(しらぎ)王子の御殿があったとされる。

 
  西方院ともいう 今津宿の脇本陣を務めたという

今も 蓮華寺の

本堂内陣の左手には、

上段の間があり、床や違い棚をもつ書院となっている

   陰陽石神社


昔は陰陽石が露出していたという 

今は井戸の中 見ること出来ない

 真田橋へ

福山市高西町から尾道市高須町へ
国道2号線沿いで昼食

フャミリーレストラン「ニューグリーン」(仕出し魚清)

福山市高西町4丁目4-5
あまりの暑さでした・・・。 福山市最高温度 33.6℃。

昼食は蕎麦御膳・中ジョッキでした。

   高須八幡神社


八幡山の高台にある。

   新しくなっていました。
高須八幡神社
2011/3/20(日) JR東尾道〜尾道 歩く

社殿は平成18年11月 竣工
   堀出地蔵堂


掘り出された石地蔵を祀った

  大松の跡


松の巨木があった。石の標柱  

   石標「右ちかみち」


右に曲がるのが近道、まっすぐが本道という 


東から来る旅人にとって、

正面に見える位置 道の南側にあった?

道の改修で移転された?

   崖の上  地蔵尊からの眺め


明治になって出来た海側の道から尾道市山波町へ

   西国街道は2号線バイパス沿いから坊地峠へ行きます。 
   関の地蔵尊

三重県  関の地蔵尊を祀った祠あります
(関:三重県鈴鹿郡関町・東海道の宿場町)

関の山」の由来
中世の時代、疫病を鎮める為の祭りが各地の祇園社
で行われ、立派な山車が作られました。なかでも、
伊勢の国関町の八坂神社の山車がとても立派で、
これ以上贅沢な山車は考えられないと評判になったそうです
この
「関の山車」が「関の山」と転じて「物事の限界を意味する
この言葉が使われるようになったそうです。 
崖を登る階段キツイです 

   高須一里塚跡

昭和9年の石柱。

見にくく 見過ごしそうです

新しい標識設置されている

備後尾道より1里、備中板倉より16里

   JR東尾道駅

14時31分発

電車に乗車

関連サイト

今津〜尾道 散策

旧山陽道を歩く 「今津宿」松永の史跡を訪ねて

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