東海道宿場町 亀山宿〜関宿 2007/8/7(火) 三重県亀山市
見事な、これが一里塚。
塚の高さ 3m 樹齢400年の巨木 幹の周り 6m 高さ30m超える 野村一里塚。
関の山の語源となった山車・関の地蔵尊 関宿を訪ねました。
『亀山宿から関宿を散策しながら、旧東海道付近にある歴史的建造物や古い町並み巡ります。
JR亀山駅→亀山歴史資料館→野村一里塚→東の追分→関地蔵尊→JR関駅
歩行距離 約8.9km 約3時間30分』
涼しい頃に行きたい。
青春きっぷの旅
行き
「相生」乗換→「草津」乗換→「柘植」乗換→亀山
帰り
関→「柘植」乗換→「草津」乗換→「姫路」乗換→「赤穂」乗換→「岡山」乗換
参院議長 江田五月氏選出。 第165臨時国会召集
安倍内閣支持率27.2%・支持しない63.7%。
参院選での与党惨敗を反映した厳しい数値。
亀山宿
東海道46番目の宿場町
亀山城跡 天正18年(1590)岡本良勝が築城したもの。多聞櫓は、三重県下に唯一残存する
城郭建造物で別名粉蝶城と称賢されています。
寛永9年(1632)幕命により松江藩主、堀尾忠晴が丹波亀山城(亀岡)と勘違いし伊勢の亀山城の
天守閣を取り壊してしまったという逸話も残されています。
その後、延享9年(1744)石川総慶が亀山六万石の城主となり石川家代々の治世下となって
明治2年(1869)石川成之の版籍奉還に至る十一代126年間続きました。
JR西日本からJR東海エリアとなります
JR東海 亀山駅 11時35分着 |
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亀山城から城下の町家を半分に描いているが、
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西町
問屋場跡 |
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東海道五十三次のうち 庄野「人馬宿継之図」 武士の供が問屋場の役人に書類を提出し、 宿役人が証文と思われる文書を確認している。 外では人足たちが前の宿場から運ばれてきた 荷物を新しい馬に積み替えている。 |
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西町問屋場跡付近から亀山城多聞櫓を望む | |
旧館(やかた)家住宅 (枡屋) 亀山宿を代表する商屋建築として |
野村一里塚 12時15分
昭和9年1月に国の重要文化財となりました。
樹齢400年の椋(むく)の巨木がそびえ立っています。
大正3年に南側のものは取り去られ北側の塚のみとなってしまった
東海道一里塚には「えのき」が使われていますが、なぜか野村の一里塚だけは、
「むくのき」が使われています。
東海道で最大なもの。
樹齢400年の椋(むく)の巨木 高さ30m超える 親切に地元の人 「どうぞ車に乗って」 手前の交差点から
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12時30分 暑ーい。タクシーで移動 1350円
関宿
東海道47番目の宿場町。
江戸時代にタイムスプリットしたかのような町並みが続く。
参勤交代の大名行列はじめ、大阪や京都から伊勢神宮に参拝する旅人など多くの人や物資が行き交い、
大いに賑わった場所。
東の追分 東海道と伊勢別街道の分岐点。外宮まで15里。 関宿の東の入口となる東の追分。 |
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一里塚跡
追分の桜の木のところ |
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関宿 木崎の町並み
重要伝統的建造物群保存地区 東西1.8km |
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鶴屋脇本陣 | |
毎年7月16日が祭礼日でしたが、現在は 7月下旬の土・日曜日に巡行されます。 |
中町三番町 山車の倉 山車<やま>(関の山車) 「関の山車」は、旧東海道の関宿の祭礼行事で、 江戸時代の元禄年間(1688〜1703)から伝わると されます。三番町に残る横幕に天保3年の年銘 があることから、少なくともこの時期までには 現在の形態になっていたものとおもいます。 最盛期には16基もの山車があり、 横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾り付けて華美 を競い合い、また笛太鼓で祭拍子で奏でながら、 また笛太鼓で祭拍子で奏でながら、狭い宿内 の軒先をかすめ、人ごみのなかを道いっぱいに 巡行する様から「この上ない、精一杯である」 という意味で用いられる「関の山」という言葉の 語源になりました。 現在では木崎・北裏・中町三番町・中町四番町の 4台のみが保存されています。 |
関宿 中町の町並み
重要伝統的建造物群保存地区 |
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百六里庭
関宿が |
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伊藤本陣跡
京都側が漢字、江戸側がひらがなで書かれた |
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鈴鹿峠へ向かう。 その麓にある宿場が関 本陣から未明の早立をする大名の一行の 慌ただしさを描いた図 |
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関宿旅籠玉屋 歴史資料館
旅籠の中でも代表的な宿「玉屋」を修復・再現した |
関高札場跡 | |
旧東海道
日本の道100選 |
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関の地蔵尊 天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられています。 境内の本堂・鐘楼・愛染堂は 国の重要文化財に指定されています。 |
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軒下には注連縄あります | |
西追分 道標
東海道と大和・伊賀街道の分岐点です 「ひだりハいかやまとみち」
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JR西日本 関駅 | |
14時51分 関駅 乗車 |