敷名・内海大橋・宮脇八幡神社 散策   2003/8/30(土)

沼隈町「敷名」    05/2/1  福山市と沼隈町が合併。

海の幅が狭い上に地形が複雑で、潮流の微妙な変化に進路を誤り、座礁する船が多かったため
海の難所として知られていました。

船人からは、行く手を遮られる「出口の見えない海」として恐れられ、いつしか、「出口無しの海」から
「口無しの海」とも「梔子(くちなし)の海」とも呼ばれるようになりました。


内海大橋の真下には古代から海の関所があった、福山藩の敷名番所跡。
福山領内に出入りする船の警備や、特産品の備後表の積だしに際して荷改めを行うようになりました。

海道の要衝 鞆の浦〜阿伏兎観音〜尾道の航路、栄えた所。

隣には 菅茶山 直筆 漢詩 「梔子(くちなし)湾」の石碑がある。
「たなびく靄(もや)の中に見え隠れする小さな海辺の村、そのどこに行宮(あんぐう)はあったのだろう」

番所跡から東に寄ったところに藤の原木がある。上には厳島神社。 

千年村と名付けられ、その後沼隈町 謂れのある「千年藤(ちとせふじ)

航行を助けた常夜灯がある。  安政四年(1857)と刻んである。

内海大橋渡れば 福山市内海町田島。「健康へのみち100選」。

椰子の木ロード、対岸は「常石造船」。

内海中学校に。宮脇八幡神社、第八十八番 大窪寺、「海にむかう矢」。

内海大橋出来るまではフェリーでよく釣りに行った所です。

平家ゆかりの地

2012年NHK大河ドラマ 平清盛  

05年のNHK大河ドラマは「義経」。源氏と平氏の攻防の中で、義経がどう生きたのか。
広島県内には平家ゆかりの地たくさんあり、往時を垣間見ることできます。

600mのきれいな三日月型を描くクレセントビーチ
かつては源氏が陣取り、対岸の能登原には平家。射た矢が刺さって竹が茂ったのが、
クレセントビーチ沖に浮かぶ矢の島とされる。

厳島神社
(佐伯郡宮島町)
平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168)ごろには社殿が造営された。
平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多くの貴族を始とする人々の
知るところとなり、社運はますます盛大になった。京都からは、皇族、貴族が訪れ、
当時の平安文化が積極的に取り入れられた。舞楽が始まったのもこの時代。平家文化の華麗さを
現代に伝えている。
警固屋
(呉市警固屋)
音頭の瀬戸開削の時、警護の武士がいたことから警固屋の地名が残っている。また、
警固屋は食料を集めた食小屋(こげや)であるともいわれる。
音戸の瀬戸
(安芸郡音戸町)
平清盛の音戸の瀬戸開削の伝説が残る。岩礁の上に、清盛をまつる清盛塚があり、
毎年旧暦の3月3日には、清盛祭が行われる。音戸の瀬戸をまたぐ音戸大橋は、
らせん型高架橋とループ式道路を組み合せた珍しいもの。音戸公園には、
平清盛日招(ひまねき)像もある。日招像は、旧海軍の砲台を台座としている。
御手洗
(豊田郡豊町)
平清盛がこの地に流れつき、手を洗ったことが御手洗の地名の由来ともいわれる。
平家伝説地
(沼隈郡沼隈町)
<能登原>この地で源平合戦があったと伝えられる。
能登原の地名も平家の武将の華・能登守教経に由来する。
<横倉>能登倉の戦いに敗れた平家は、壇ノ浦へ向ったが、
一部は横倉の谷あいに安住の地を見いだしたと伝えられる。
鞆の浦
(福山市鞆)
重盛、知盛、教経に斐忠次郎が操船術を伝授し、平家水軍を育てた。
敷名泊
(沼隈郡沼隈町)
平安時代、平氏をはじめとする都の貴族たちの厳島詣が流行したころ、
沼隈の入江敷名泊で船を降り休息した。当時は、商業ルートの港としてもにぎわった。
庄原の敦盛さん
(庄原市)
庄原地方には古くから平敦盛を歌った「敦盛さん」が歌われている。
人々が集まるとその余興に歌われ、正月になると家々をまわって歌う「門付」歌も「敦盛さん」。
敦盛自身か、それともゆかりの者がこの地に縁があったのか?
平家ガニ 瀬戸内海には平家の武者の顔をしたカニがいる。
伝説によると、平家の亡霊のしわざとか・
千年藤

敷名は、古代より海の関所がおかれ、備後表の積み出し港としても、
たいへん栄えたところである。

「平家物語」巻四「還御の事」には治承四年(1180)高倉上皇が
宮島からの帰路、敷名の港に停泊し、岸一面に咲きほこる藤の花に
おおいに賞賛し、採りに行かせます。使いの者は、藤の花を松の枝に
からませたまま持ち帰りました。それを大納言隆季は
千年へん 君がよわいに藤波の  松の枝にも かかりぬるかな
と歌に詠み、上皇に献上したとある。この歌の古事にならって、
明治22年に誕生した村の名は千年村とな付けられその後、
昭和30年から沼隈町となる。

寛保3(1743)年4月福山藩主安部正福は、領内巡視時に千年藤を鑑賞し
「千年藤」の立札を立てさせています。

明治時代の歌人、正岡子規は、この場面を題材に、
みつかさの 折りてささぐる 松ヶ枝に
長き短き 藤浪の花
など数首を詠んでいます。

敷名山に厳島大明神社
橋の曲線美 内海大橋の歩道には藤の花 磯間の浦」は内海大橋が架かり陸続きとなった。

かつてのフェリー乗場跡敷名〜幸崎

内海大橋出来るまで

向うは内海町田島「幸崎」

 

常夜灯

安政四年丁巳九月 刻んである

 

敷名番所跡

内海大橋の真下にある。

敷名番所跡伝承地発掘調査報告書 

番所跡の隣にある。
菅茶山が、ここ敷名の風景を漢詩
としたのが、この梔子湾である。
この石碑は、茶山の直筆を
写したものである。

梔子(くちなし)湾 茶山

荒山河處舊行宮    
荒山何れの処ぞ旧行宮

嶋寺沙村煙靄中    島寺沙村けむる靄(もや)の中

一去舟春幾度     
一たび龍舟去って春幾度

紫藤花落暮湾風    紫藤花は落つ暮湾の風

梔子湾・・・沼隈郡沼隈町の阿武兎観音の西奥
龍舟・・・天皇の御召船(神武天皇)

【大 意】 荒山のどこらにもとの行宮(あんぐう)があったのか、
砂浜のつづく村の高処に寺が、もやにけぶっている。
一たび御召船が去って幾度春がめぐってきたか。
紫色の藤の花は既に落ちて、暮れなずむ入海に
昔ながらの風は吹いてやまない。

菅茶山(1748〜1827)は、江戸時代後期の著名な
朱学者であり、代表的な漢詩人であった。
神辺町出身の 茶山は、19歳で京都に遊学し、
天明の頃(1781)、廉塾を開く、文化九年(1812)に
刊行した漢集「黄葉夕陽村舎詩」は大評判となる。
日常の風景の中に多く題材を求め漢詩にしてきた

「健康への道100選」

 

内海中学校となり

宮脇八幡神社

椰子の木ロード
第八十八番 大窪寺
「海にむかう矢」
内海大橋

春4月5月ともなると、千年藤にちなんで
歩道に植えられた色とりどりの藤の花が咲きそろい、
美しい景色見せます

内海大橋から尾道方向を

常石造船

 

TOP