~福山古典文学ゆかりの地を巡って~   備後福山

2008年(平成20年)は、源氏物語が記録のうえで確認されるときからちょうど一千年を迎えます。
古典の日 11月1日

万葉集  柿本人麻呂   大伴旅人

万葉歌碑

万葉集  作者  歌碑  内容   場所
万葉集の恋歌 

(みち)の後(しり)
深津島山(ふかつしまやま)
(しま)しくも
(きみ)が目見(めみ)ねば
(くる)しかりけり
 柿本人麻呂 万葉集第十一に載せられた柿本人麻呂歌集の中の一首です。
「路の後」は吉備の路の後、すなわち備後のこと、その
備後の深津島山のしまにかけて、暫くでもあなたにお会いし
ないと苦しくてたまりません、という女性の(立場で詠んだ)
歌です。福山は江戸時代以降の干拓によって生まれた町で
万葉の時代には山麓まで海が湾入していました。
眼下に望める南に延びた丘陵が、かつては海上に長く突き
出た半島で、深津島山と呼ばれたところです。
くねくねと延びた深津島山と呼ばれたところです。
くねくねと延びた深津島山を大蛇にたとえ、そして突端の
すぐ沖合(港町児童公園内)にある大岩を蛙にたとえて、
大蛇ににらまれた蛙が岩になって身を守ったという伝承も
残されています。 
蔵王憩いの森 

福山市蔵王町
むろの木歌碑

吾妹子之見師
(わがもこがみし)

鞆浦之天木香樹者 
(ともうらのむろのきは)
常世有跡見之人曽奈吉 
(とこよにあれどみしひとぞなき)

 
 大伴旅人 古来、鞆の浦は瀬戸内海交通の中心の港でした。
万葉の時代は遣唐使、遣新羅使などが立ち寄り、
いくつも歌が詠まれています。万葉秀歌といわ
れるこの歌は、730年(天平2年)大伴旅人が太宰
府の役人の任期を終えて鞆の浦によったときにの
一首です。727年(神亀4年)か728年(神亀5年)
に任地に向かう時、妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)と
神木のむろの木に海路の安全などを祈ったと考えられます。
728年(神亀5年)大宰府で最愛の妻を失った旅人の
嘆きが伝わってきます。

 
鞆の浦歴史民俗資料館 

福山市鞆町後地536-1
 むろの木歌碑

2021・11・23
   室の木(むろのき)植物ネズの古名
杜松(ねず)ネズ
福禅寺・對潮楼の石垣の下

 福山市鞆町鞆
吾妹子之見師 
わがもこがみし
 
鞆浦之天木香樹者
 
ともうらのむろのきは
常世有跡見之人曽奈吉 
とこよにあれどみしひとぞなき 
 大伴旅人 古来、鞆の浦は瀬戸内海交通の中心の港でした。
万葉の時代は遣唐使、遣新羅使などが立ち寄り、
いくつも歌が詠まれています。万葉秀歌といわ
れるこの歌は、730年(天平2年)大伴旅人が太宰
府の役人の任期を終えて鞆の浦によったときにの
一首です。727年(神亀4年)か728年(神亀5年)
に任地に向かう時、妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)
と神木のむろの木に海路の安全などを祈ったと考え
られます。728年(神亀5年)大宰府で最愛の妻を
失った旅人の嘆きが伝わってきます。 
仙酔島に渡す渡船場前
福禅寺・對潮楼の石垣の下
鞆の浦亡妻挽歌
三首の内の一首

 
万葉集巻三-四四八番歌

磯の上に根這ふ
むろの木見し人を
いづらと間はば語り
   告げむか 
大伴旅人 天平二年(七三0)十二月、大宰府の長官だった大
伴旅人は、大納言兼任となって都に上る途中、「鞆
の浦のむろの木」を詠った三首の歌を残した。その
三首目がこの歌で、他の二首の歌碑は対潮楼の崖
下と歴史民俗資料館の前庭に建っている。
 「磯の上にしっかり根を張って立つむろの
  木よ。大宰府へ下る時、私は妻や息子といっ
  しょにお前を見たものだ。しかし、その妻はも
  うこの世にはいない。私の愛する妻が今ど
  こにいるのか尋ねたら、お前は私に教えて
  くれるだろうか。」
  こう、むろの木に問いかける旅人は、神亀五年
(七二八)の初め大宰府に下ったが、まもなく妻を亡
くし悲嘆にくれた。一方奈良の都では、翌神亀六
年二月の長屋王の変によって、光明皇后が誕生し、
藤原氏の全盛時代を迎えようとしていた。
 子息 家持を伴い、亡き妻の思いを胸に帰京した
旅人は、翌天平三年(七三七)七月、萩の花を気にか
けながら、静かに六七年の生涯を閉じた。
     二〇一〇年四月二七日
        鞆の浦ロータリークラブ創立四十周年記念 

医王寺 

福山市鞆町後地1397
   
1642年(寛永19年)
福山藩主水野勝成建立 

鐘楼から鞆の浦の眺め
医王寺  

芭蕉の句碑

 芭蕉の句 句碑   場所
今日ばかり ひとも年よれ はつしぐれ

時雨の寂しさは枯淡の境地に達した老い
の心にふさわしい。折から降り出し
た初時雨に、若い人たちよ、今日ばかりは
年寄りの心境になって、この寂びた
情緒をしみじみ味わってほしい。
薬師寺 

福山市今津町1352
 疑な うし保のはなも 浦の春

くだけちる波(潮)の花をみると
この浦までも新春のめでたさがある
この自然をつくられた神徳を疑うな
   円福寺

福山市鞆町鞆10
 扇にて酒くむ影や散桜

「かげ」とは、姿や形の意。
はらはらと散る桜の花びらを、
扇子を広げて受け止めてみた。
その姿が、酒を酌む格好に似ている。
   王子神社
福山市東深津町五丁目15番1号

一番右が芭蕉の句碑

奥の細道シリーズ

 世の人の見付ぬ花や軒の栗 元禄2年(1689年)4月24日(陽暦6月11日)、
須賀川の可伸庵を訪れて詠まれた句。
【意味】栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。
そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をもあらわし
ているようで、おもむき深い。

 
 田一枚植て立去る柳かな  栃木県那須町芦野宿の遊行柳(ゆぎょうやなぎ)を
見てこの句を詠んだと言われています。
「農民たちが田を一枚植えて、立ち去って行き、
あとに残されたのは柳のみである。」と解釈する説

 夏草や兵共が夢の跡 芭蕉が46歳の頃の作で、岩手県平泉町で
1689年5月13日(新暦6月29日)に詠まれました。
「今や夏草が生い茂るばかりだが、ここはかつては武士達が
栄誉を求めて奮戦した跡地である。
昔のことはひと時の夢となってしまったなあ」
 


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