西国街道 播磨国から摂津国を歩く JR塩屋駅→JR神戸駅 兵庫県神戸市垂水区〜神戸市中央区 2012/9/23(日)

行程  約10km 6時間の旅。 朝方の雨上がりました。播磨国踏破の日 足掛け3年9カ月かかりました。
JR塩屋駅→「国境 播磨・摂津」→敦盛塚→「源平史蹟 戦の濱」碑→一の谷川→村上帝社
→菅の井→妙法寺川(三の井橋)→昼食→鉄人28号モニュメント→蓮の池→長田神社参道→新湊川→平知章之墓→
監物太郎頼賢の碑→JR兵庫駅→蛭子神社(兵庫宿柳原惣門)→能福寺と兵庫大仏→
清盛塚→札場の辻跡→湊八幡神社(湊口惣門)→西国街道ビル前→JR神戸駅

JR塩屋駅から須磨   源平ゆかりの史跡多い。神戸源平物語

10時30分
垂水区塩屋町
JR塩屋駅集合出発

朝方の小雨止み、曇り空です。

山陽本線の陸橋「菅公橋」工事中 「全面通行止め」の看板設置

う回路は駅北側から歩きました。

国境 堺(境)川 です

 播磨国から摂津国へ 関所ありません

人の動き カウントしていました。

歩く人少ない、ジョギングする人多い。

現在は区境
神戸市垂水区→須磨区に入ります

須磨区一ノ谷町
敦盛塚五輪塔
一ノ谷の戦いで、熊谷直実に首を
打たれた16歳の美少年、平敦盛の供養塔といわれる。

入り口には「敦盛そば」との看板を揚げた食堂がある。
敦盛そばは、江戸時代から文学の中にもその名前が
登場するほど全国的に有名で、参勤交代の大名もよく立ち寄った。
平敦盛?? 情報??  スマートフォン・タブレット調べます。

山陽電鉄「須磨浦公園駅」通過します。
(いくさ)の濱(はま)の碑
源氏と平家の明暗を分けた一ノ谷の戦いは、このあたりで繰り広げられた。
山手に陣を置いた平家は、一時は赤旗谷川沿いをシンボルの赤旗で埋め尽
くす勢いだったが、義経率いる源氏の奇襲によって敗走。この浜で多くが討ち
死にした。昭和13年、石碑が建立された。
一ノ谷川

須磨浦公園総合案内」 一ノ谷の戦い 奇襲を想像します。

関守町

須磨区から長田区へ  平成7年1月17日発災した阪神淡路大震災 復興跡見ました。

山陽電鉄「須磨駅」まえ通過
須磨浦4丁目
村上帝社(むらかみていしゃ)
平安時代末期、琵琶の名人であった藤原師長(もろなが)は唐に渡って
琵琶の奥義を極めたいと思い、都を出て、須磨まで来た。その夜、
村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので、
師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。
この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られた。
この伝承に基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが当社である
と伝えられる。
横には関の地蔵尊

須磨本町

須磨寺への参道

須磨寺へ山陽電鉄踏切渡り 500m北

須磨の史跡めぐり
天神町 電線地中化工事 震災復興してます
菅の井(すがのい) 道標「旧西国街道」全員の写真撮り
須磨の旧家である前田家の前に植えられていたカキツバタは
街道を往来する人たちに親しまれ、「須磨の前田のカキツのなかに、
アヤメ咲くとは知らなんだ、咲いてしおれてまた咲く花は、須磨の前田の
カキツバタ」などと唄われた。
菅原道真が九州へ左遷の途中、風波をさけて須磨に上陸したとき、
前田家から井戸の水をくんで差しあげたところ、大いに喜ばれて自画像を
前田家に与えたという。
前田家では、その井戸に「菅の井」と名付け、この水で銘酒「菅の井」を
作って毎年太宰府天満宮へ献上していたと伝えられている。

中島町
妙法寺川 三の井橋 渡ります。

12時30分から50分 下中島公園で昼食
街道長田区御屋敷通り歩き 

西国街道から離れ寄道です。

若松公園に鉄人28号モニュメント
阪神淡路大震災復興のシンボルとして
2009年9月30日完成
蓮池町蓮の池跡  晴れて暑いです。
昭和6年まで、ここには「蓮の池」という四町二反(約4ヘクタール余り)
の大きな池がありました。奈良時代に周辺の田に農業用水を供給する 
ため池として作られたもので僧行基が作ったといういい伝えがあります。
池が完成したとき「蓮の花が美しく咲いているという極楽浄土の池ように、
この池にも蓮の花が咲き乱れ、この水で人々が豊かになるように」と願って、
行基は一株の蓮の花を池に投げ入れたといわれます。やがて池には、
その言葉通り蓮の花がたくさん咲き、人々はこの池を「蓮の池」と呼ぶ
ようになったそうです。「蓮の池」の南には山陽道がとおっていたた
め、「平家物語」、「増鏡」、「太平記」などの古典に「蓮の池」がたびたび
出てきます。たとえば「平家物語には平重衝が西へ落ちていくのを、
『湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手にみて、駒の林を弓手に
なし、板屋ど・須磨をもうちすぎて、西へをいてぞ落ちたまふ』と書かれています。
御船通 
地下には山陽鉄道・高速道路が潜っています。
長田神社参道
600m北に長田神社

平成7年1月17日 午前5時46分 
倒壊した旧鳥居の一部 まちの記憶とする
 長田神社参道の狛犬
狛犬の足には、月日が流れ灰色になってしまった布(さらし)が巻かれています。
これは、家出をした子供達や蒸発した身内を持つ家族が、手の届かないよう
な遠くへ行かないよう、一日もはやく帰ってくるよう、「足止め」の祈りを込めて
巻きつけていったもの。
 五番町    この辺り 源平ゆかりの史跡 

新湊川
度重なる水害と神戸港への 土砂流出を防ぐため
1901年(明治34年) - 新湊川の開削(湊川の付け替え)。

平知章之墓
この附近は、もともと小平六池(こへいろくいけ)といわれていた。
寿永3年(1184)源平一の谷の合戦で討ち死にした
平通盛(たいらのみちもり)、源氏の木村源吾重章(きむらげんごしげあきら)
同じく猪俣小平六則綱(いのまたこへいろくのりつな)らの碑が、
この附近の西国街道に面してあった。
平知章(たいらのともあき)之墓  新湊川橋東詰め北側にあります。
 
監物太郎頼賢の碑
村野工業高校の東の路地を少し入ったところにあります。
寿永3年(1184)2月7日に源平合戦の中で有名な一の谷の戦いが行われました。
生田の森の大将中納言知盛は子供の武蔵守知章(むさしのかみともあき)と共に
落ちていきました。源氏方の児玉党10数騎が知章を討とうと追いかけてきました。
これを見た知章の家来監物太郎頼賢(けんもつたろうよりかた)は主君を救おうと
奮闘したが討ち死にした。主君の平知章は討ち死にしたものの平知盛は海に
逃れ方へ落ちていきました。監物太郎頼賢が没後憤死した地長田村明泉寺長阪
山腹に弔われていたが江戸時代享保年間(1716-1735)に西国街道の長田神社
の近くの夫婦池の畔(現在地)に再建された。碑は古来より庶民の信仰が篤く
「腰より下の病を救う霊験がある」とされています。
監物太郎頼賢(けんもつたろうよりかね)の碑
源平一の谷合戦で、東城戸を守っていた平知盛は、子知章と家来の
監物太郎頼方(よりかた)とこの付近まできたとき、源氏軍に追い詰め
られ、この時監物太郎は知盛を助けようと知章とともに奮戦し、無事
知盛を逃します。しかし、戦闘の中で、知章もまた敵に討たれてしまい
ます。最後に残った監物太郎は知章の仇と相討ち、命を散らしました。
この太郎の忠義心が地元住民の心に忠臣として大事に祀られるように
なったのがこの場所です。『監物太郎はその中の一兵の首を取った。
彼は矢種のある程を射尽くし太刀を抜いて戦ったが左の膝口を敵に
射られ立上がらず討ち死にせり。

長田交差点に 「式内 長田神社」向こうに赤い鳥居。

神戸市兵庫区から中央区へ

兵庫区駅前通

JR兵庫駅
西柳原町 
蛭子神社(ひるこじんじゃ)
柳原蛭子神社の北側には、江戸時代には西国街道から兵庫津への
西の口となる柳原惣門(西惣門)があり、
門前は札場(高札場)になっており番所が置かれていました。
蛭子神社は柳原えびす神社とも呼ばれ、兵庫津の道、
西国街道の柳原の中心にあり、創建年代は不明ですが
1692年(元禄5年)兵庫津の「寺社改帳」には蛭子神社の
記載があることから元禄以前から祀られていたことがわかります。
北逆瀬川町 西国街道から離れ寄道しました。
平清盛公墓処と兵庫大仏
能福寺は平清盛所縁の寺としても知られ、1180年(治承4年)、
福原京遷都にともない平清盛が能福寺で剃髪入道(浄海)し、
平家一門の祈願寺に定められ大伽藍が建設され八棟寺と称されました。
能福寺境内には平相国廟(平清盛廟)・平清盛公墓処があり、
平清盛が京都で荼毘にふされたとき、この寺の住職円実法眼が
清盛の遺骨を持ち帰り寺領内に葬ったと伝えられています。
兵庫大仏は、兵庫港開港以来急速に増えたキリスト教信者に
危機感を抱いた仏教徒らが、キリスト教に対抗して仏教徒のシンボル
となる大仏を建立したといわれています。
切戸町

清盛塚
清盛の遺骨を持ち帰った円実法眼(えんじつほうげん)が埋葬した
清盛の墓と信じられていた十三重の塔でしたが弘安九年(1286)
に建てられた供養塔であることが判明し、
大正十二年の市電道路拡幅工事で現在地に移転しました。

札場の辻跡兵庫津繁栄の時代
本町 西国街道 戻ります
#64 神戸の港〜神戸はなぜ1300年も良港なのか?〜
放送日:2017年2月18日(土)ブラタモリ、神戸へ!
今年、開港150年目を迎えた兵庫県の神戸港は日本を代表する港。
その歴史は古く、なんと1300年前の奈良時代から記録が残っているほど。
そして現在は、「Port of KOBE」の名で、世界中の船乗りたちから素晴ら
しい港と絶賛されています。 でもどうして神戸の港は、そんなに「良港」
なんでしょうか?タモリさんが、みなと神戸の秘密に迫ります。まずは船に
乗りこんで、海の上から神戸港のよさを実感した海の男・タモリさん。
遠くに世界最長のつり橋・明石海峡大橋をのぞみ、目の前に六甲の急な
山々がそびえる神戸港ならではの風景に感激!しかし実はその風景こそが、
「良港」の秘密をとくカギだった・・・っていったいどういうこと?続いて港の秘密
を解くために向かったのは、なぜか少し離れた山の上。ケーブルカーでたどり
ついた先で、タモリさんが発見した意外な事実とは?
世界中の船乗りたちに愛されているのが、船に欠かせない神戸の水。
日本で一番古いというコンクリートダムで不思議なブルーの水を味わった
タモリさん。神戸が「良港」である秘密は、海じゃなく山で明らかになる??
兵庫町
湊八幡神社「西國街道 兵庫 湊口惣門跡」
兵庫津東の出入口で、西国街道に面して湊口惣門があり、
番所が置かれ、高札場があった。
旅人の目につきやすく、付近は人の往来が激しいので、
辻に「迷子のしるべ石」が建てられていた。
こどもが迷子になった家ではここに来て、
こどもの特徴・年齢・住所・氏名を紙に書いて、
この石に張りつけておく。また、こどもを発見した人は、
ここへ連れてきて、尋ねる家の人に会えば、すぐ引き渡し、
会えなければ、石に住所・氏名などを書いた紙を張りつけておく。
新開地
 
1901年から始まった湊川の付け替え工事に伴い、
旧湊川の流路を整備してできたのが始まり。戦前は、映画館・飲食店を中心
とした神戸一の繁華街・オフィス街であった。しかし、戦後、長く進駐軍に接収
されたために復興が遅れることとなる。また、隣接する福原遊郭が規制する
法律の施行に伴い消滅する。そして、映画が娯楽の主役から転落したうえに
市役所が三宮に移った事により、神戸市の中心も三宮に集約されて街は寂れ
ていった。新開地 西国街道ビル前に西国街道の道標があります
#65 神戸の街〜神戸はなぜ“ハイカラ”なのか?〜放送日:2017年2月25日(土)
150年前の開港以来、様々な西洋文化が入って来た神戸。和洋入りまじるまさに
“ハイカラ”な街です。でも数ある港町の中で、どうして神戸はとびきり「ハイカラ」な
町なんでしょうか?タモリさんがブラブラ歩きながら、神戸の知られざる歴史を解き
明かします。まずは神戸を代表する観光名所、風見鶏の館へ向かったタモリさん。
普段は非公開の部屋へ潜入したタモリさんが発見した、明治時代の神戸の姿とは?
そしていまはオフィス街となっている「旧居留地」へ。不規則に並んだ番地が明らかに
する、神戸がハイカラな町になった理由とは?そして、かつての一大歓楽地へ向かっ
たタモリさん。商店街の奥に突然目の前にあらわれた巨大な段差の正体は、天井より
高いところを流れる川のあとだった?この段差と謎のトンネルが神戸発展の切り札!?
さらにとある和菓子屋に向かったタモリさん。なんと日本のスイーツの原点は、神戸の
××せんべいだった・・・って本当?? タモリさん、伝統のお菓子作りに挑戦します!
中央区相生町 

東海道本線の終点 山陽本線の始点


JR神戸駅 16時56分発乗車
 土産  いかなご くぎ煮

神戸須磨沖明石海峡で獲れる特産活いかなご

      JR塩屋駅→JR神戸駅
明石・塩屋  〜  播磨・摂津の国境 〜 JR神戸駅〜住吉駅

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