須磨の史跡めぐり定番コース 兵庫県神戸市須磨区 2012/4/9(月)

行程 4時間半の史跡めぐり&潮風体感
JR須磨駅→村上帝社→須磨の関跡→現光寺→綱敷天満宮→平重衡とらわれの松跡→智慧の道→
須磨寺(福祥寺)→神戸迎賓館須磨宮(旧西尾邸)→須磨海水浴場→旧住友須磨別邸の門柱 →
須磨の赤灯台(旧和田岬灯台)→JR須磨駅

JR須磨駅 出発
村上帝社(むらかみていしゃ)
平安時代末期、琵琶の名人であった藤原師長(もろなが)は唐に渡って
琵琶の奥義を極めたいと思い、都を出て、須磨まで来た。その夜、
村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので、
師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。
この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られた。
この伝承に基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが当社である
と伝えられる。
須磨の関跡
須磨の関は、大宝令に定められている摂津の関のことで、海陸を兼ねた
関であったといわれています。天下の三関、「伊勢の鈴鹿の関」
「美濃の不破の関」「越前の愛発の関」に次いで重要な関で、天下三関が
廃止された789(延暦8)年前後 に須磨の関も廃止されました。
源兼昌の「淡路島 通う千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守」の歌は、
のちの追懐であって、そのとき関はすでになかったようです。
「須磨の関」の跡地としては、関守稲荷の地、現光寺の地、
多井畑などと諸説があって、いずれとも断言はできません。
現光寺
「源氏物語」の主人公光源氏の住居跡と伝えられ、
昔は「源氏寺」と呼ばれていました。
綱敷天満宮
菅原道真公が九州に渡るおり、須磨の浦に立ち寄り、
須磨の漁師が造った大綱の円座で
休憩したと言われ、それにちなみ、菅原道真公の死後この地に
創建されました。

 
平 重衡とらわれの松跡
平安時代末期、1183年(寿永3年/治承8年)、
福原及び須磨で行われた
「一の谷の合戦」で、
平重衡(たいらのしげひら)は敵方の源氏の武将に捕われます。
この地で、松の根に腰をおろした平重衡は無念の涙を流しましたが、
村人が濁酒(にごりざけ)を一杯さしあげたところ、
「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて
 須磨でのむこそ 濁酒なれ」
と一首の和歌を詠んだと伝わります。

 源平ゆかりの古刹・須磨寺
須磨は源平興亡の舞台となった地で、須磨寺にも平敦盛の首塚などの
史跡があり、須磨寺境内には源平の庭が作られ、
平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を実物大の
モニュメントで再現しています。

 須磨寺(福祥寺)
平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で引き上げた
聖観音像を886年(仁和2年)
に聞鏡上人が現在の地に移したのが始まりとされている
 神戸迎賓館須磨宮
1919(大正8)年、貿易商西尾類蔵の邸宅として建てられました。
初代通天閣を設計した著名な建築家、設楽貞雄の設計によります。
当時は、主に迎賓館として利用されました。
平成21年度兵庫県指定有形文化財
となりました。現在は、ウェディング&レストランとして、
文化財として保存しながら
活用されている。

 旧西尾邸

結婚式の披露宴会場
 須磨海水浴場
白砂青松の美しい海岸は、レクレーションゾーンとして多くの
人々に親しまれている。
阪神間から一番近い海水浴場で、夏には海の家がたちならび、
多くの海水浴客が訪れます。
また、ビーチバレーボール大会やアクアスロン大会などの
各種イベントも行われます。
 旧住友須磨別邸の門柱
明治36年(1903)頃には旧住友須磨別邸であった。
現在は門柱だけが残っています。
別邸は昭和20年6月の空襲で焼失し、跡地は神戸市に寄贈し、
昭和26年須磨海浜公園として
整備されました。
須磨の赤灯台(旧和田岬灯台)
須磨海浜公園西には、赤い六角形の灯台、旧和田岬灯台があります。
和田岬灯台は1871年(明治4年)に木造の灯台として和田岬の
和田岬砲台の横に
立てられましたが、1885年(明治17年)に鉄製灯台
として建て替えられました。
1963年(昭和38年)に廃灯になり、その後須磨海浜公園
に移設されました。
現存する鉄骨製の灯台としては日本最古の灯台となります。
 
 JR須磨駅
南口でたら海水浴場です。

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