西国街道ぶらり旅(欽明路〜玖珂〜高森
                                    山口県岩国市玖珂町・周東町2007/9/29(土)


高森宿 嘉永6(1853)年9月10日 篤姫 泊まる

集合:JR岩徳線欽明路駅 10時30分  50名ほど参加ありました。

JR呉線の事故で列車到着遅れ その影響で出発すこし遅れ、11時前出発となりました。

天候は前日予報 心配しましたが降水確率40%できました。
真夏日続きましたが 薄曇りで久しく涼しい ウォーキングにちょうどよい一日でした。 
今まで長袖見るのも イヤー 暑かった、長袖シャツで参加しました。

ガイド役はピンチヒッターでした。

行程
JR欽明路駅→野口一里塚跡→玖珂市→祥雲寺→JR玖珂駅(昼食・会員証押す)→
玖珂本陣跡→柳井小路→鞍掛合戦千人塚→浄光寺→菅原神社→椙杜神社→高森宿→
吉田松陰宿泊地→宇野千代文学碑→高森天満宮→JR周防高森駅

解散:15時30分 JR周防高森発 16時3分乗車

9月27日 ミャンマーでフリーカメラマン長井健司さん 反政府デモ取材中、至近距離から銃撃死亡。

 欽明路〜玖珂〜高森まで  

野口一里塚跡
欽明寺から西へ1.9kmの所にあったと言われています。
野口には旧山陽道の駅家(うまや)が関戸の次の駅として置かれていました。

赤間関へ32里 小瀬川から4里


田坂市良右衛門碑

玖珂市
玖珂の街筋は古来「玖珂三市」と呼ばれ、それぞれに毎月決まった日に市がたっていました。
本郷市は7日と24日、新市は11日、阿山市は2日と20日といったぐあいです。
本郷市は市頭から柳井小路まで、新市は柳井小路から水無川まで、阿山市は水無川から市尻までです。

祥雲寺
毛利元就に敗れた鞍掛城主 杉隆泰の菩提寺。かつては末寺24坊もあった大きな寺院でしたが、兵乱により焼失し、
岩国吉川家により慶安年間(1648〜1651)に野口に城泉寺として再建されました。そして、元禄14(1701)年に現在の地に移し、元文4(1739)年に祥雲寺として寺号を復活させました。境内には杉隆泰父子の墓があります。現在は無住職ですが、薬師堂は今年建て替えられ、今も改築中です。

JR玖珂駅
ここで昼食と会員証に押印しました。
「鞍掛合戦千人塚碑」イメージしました。

駅舎の後は鞍掛山240mです。

玖珂本陣跡
本郷の北側、玖珂小学校の校庭の場所にありました。西南の隅に大きなモミの木があって、そこに御茶屋の庭があった。代官所も置かれていた。
校舎の後ろは鞍掛山です
柳井小路
本陣前から南に柳井へ向かう小路が延びて柳井小路と呼ばれていた。中世以降、柳井は西日本有数の商業都市として栄え、柳井と岩国城下町との間は、物資流通の道として海上流通が盛んであったが、陸路では柳井津から玖珂を経由して山陽道を東上するルートが利用された。


浄光寺
「玖珂」という呼び名は、養老5年(721)に野口の里より玖(黒石の玉)、珂(潔白で雪の如し)の玉が出て、これを奏聞したことから熊毛郡を分けて玖珂郡を置いたのが始まりといわれている。この玉を浄光寺の霊泉で磨いたことから山号は清玖山宝珠院と名づけられた。

本堂は崩され、更地になっていました。
改築予定あります。


鞍掛合戦千人塚
周防、長門を支配する大内義隆には陶、内藤、杉の三奉行がいました。毛利元就は厳島合戦に勝利した弘治元年(1555)9月29日から日を置かず周防岩国にやって来て、大内三奉行の一人、鞍掛城主 杉隆泰と戦ったのが鞍掛合戦です。杉隆泰は3万石を領し、周防一円の宗宰者の地位にありました。
陶晴賢が主君大内を倒し、毛利と厳島で戦った際には積極的な援助を行わず、鞍掛城に立て篭もっていました。
杉と領域を接している蓮華山城主の椙杜(すぎのもり)隆康も共に毛利の支配になっていましたが、椙森は杉が大内に寝返るとみて証拠をつかもうと密かに見張っていました。
椙杜は山口に帰る修行僧に託した杉からの密書を見つけ元就に急進し、元就はすぐに鞍掛城を攻めました。不意を衝かれた鞍掛城は2600の兵力で防御したが、毛利軍7000にはかなわず、1370余人の将兵が討死して落城した。
将兵はひとまとめにして埋葬されその墓は千人塚と呼ばれている。碑の側に杉氏の家老の一人宇野景政の末裔にあたる宇野千代の「史跡 千人塚に思う」の供養碑がたつ。

水無川
この一体は典型的な扇状地帯であると言われ、勾配は約9度で、扇状地の表面を流れず自然と地下に沈着し、地表流となって流れるのは洪水時だけです。

阿山の街並みを歩きます。
彼岸花見ながら
実りの街道沿い歩きます

椙杜(すぎもり)神社
蓮華山城主の椙杜正康の祖父大田時直が、足利尊氏に従って九州に向かう途中、鶴岡八幡宮を高森に勧請して「泉山八幡宮」と称したのが始まりで、その後正康は筑後から椙杜に移り大田姓を椙杜姓に改め大内氏に仕えた。その後泉山神社は椙杜神社と呼ばれるようになった。
中国行程記には参道入口西側に椙杜一里塚が描かれている。赤間関へ31里。

高森小学校では運動会の練習していました

高森宿
高森本陣は相川家が勤め、相川本陣とも呼ばれていた。
脇本陣は受光寺と山本家が勤めた。
かつては街道の中央に用水溝が通って防火用水、洗濯にと利用していた。両脇に柳や桜の並木があり訪れる人の目を楽しませていた。昭和30年代初め商店街発展のため埋め立てられた。
高森本陣は、萩本藩の東端の本陣として重要視され、幕府軍と長州藩との戦いである四境の役(第二次長州戦争)での休戦協定成立の舞台になりました。街道から2km程南下した所に遊撃隊の陣営地になった通化寺もあり、幕末維新のゆかりの地です。

嘉永6(1853)年9月10日 篤姫 泊まる

宇野千代文学碑
宇野千代の生まれは故郷岩国であるが、早くに母を亡くし、父の実家である高森で育てられた。造り酒屋である実家の敷地裏に「宇野千代文学碑」が建てられている。側に岐阜県根尾谷にある薄墨桜から移植され 春には美しい花が咲きます。宇野千代の作品には高森、玖珂地域の風景が数多く登場します。
高森天満宮
防府・柳井と並ぶ周防三天神の一つ、天文年間(1736〜40)に社祠が建立された。

今市宿←/玖珂市・高森宿/→柱野宿

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