中山道を江戸へ下る旅 JR石山駅~JR草津駅 
                          令和4年(2022)4月16日(土)滋賀県大津市・草津市


ウクライナ兵に投降要求 ロシア、最後通告か?
熊本地震 本震から6年 

行程 10km 旅人6人  風冷たい一日。
JR石山駅→芭蕉像→東レの門柱→今井家(本陣跡)→
瀬田の唐橋→辻末製菓(たにし飴)石材店のネコ→旧芦浦街道道標→道祖神・大日如来→西行屋敷跡
→月輪一里塚跡(131里)→昼食・和食さと 瀬田店→立場跡碑→月輪寺→狼川橋→弁財天
→野路の玉川→子守地蔵→野路一里塚跡(130里)→旧姥ヶ餅屋跡・矢橋道標
→矢橋橋→立木神社→正定寺→太田酒造→問屋場・貫目改所→常善寺→
真教寺→魚寅楼→田中九蔵本陣跡→田中七左衛門本陣跡→道標→草津川跡地公園
→覚善寺の追分道標→草津一里塚(129里)→一日目 終点:JR草津駅 懇親会 日本酒と魚串 松吉
ホテル(泊)

土産 純米吟醸 天井川   うばがもち

中山道
中山道は木曽路とも呼ばれ、日本の背梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも
東海道に次ぐ幹線道路であった。その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を
経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御嶽・駒ヶ岳間の
木曽谷を降り、美濃路を西進、関ケ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の
各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。
草津には、笹川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の町並みを通過したのち、砂川
(旧草津川)を越えて草津追分に至った。なお、中山道文間延絵図によれば、渋川には梅木和中産出店
小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)
ほかの社寺仏閣、各所が街道沿いに存した。草津市教育委員会





瀬田の唐橋
唐橋の名称由来は、唐様の技法だから、労の多い作業で「辛橋」と言ったから、
擬宝珠が唐金(青銅)だったからなどの諸説がある。
近江國 勢多橋
昭和五十四年架替工事に伴い旧擬宝珠の保存につとめたが
破損はなはだしいため新造し旧擬宝珠の記録を保存する
明治八年十二月十六日造営 滋賀県

辻末製菓(たにし飴)

月輪寺
役行者が本尊。文久3(1863)年には、徳川家茂が上洛途上に小休止している。
延宝元(1673)年、京都の六人衆が御所藩に新田開発を願い出て、翌年完成した。
この寺の前の顕彰碑は、昭和56年に建てられた。「東海道」「濱道」と刻まれた
道標の濱道は、琵琶湖へ続く道のことか。

月輪
月輪(つきのわ)池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から
名付けられたとも、月輪殿九条兼実(くじょうかねざね)の庄園内にあったから
ともいわれるます。元来は原野でしたが、江戸時代にはいって開墾が進められ、
延宝4年(1676)大萱(おおがや)新田となり、明治7年(1874)月輪村と
改称されました。






野路の玉川
草津市野路町の玉川小学校の北約200mの旧東海道沿いに、野路の玉川がある。
日本六玉川の一つに数えられた名泉で、東海道を往来する旅人や牛馬の憩いの場であった。
近くを流れる十禅寺川の伏流水を湧出していたと考えられる。
鎌倉時代にはハギの名所として知られ、「萩の玉川」ともいい、多くの歌人が訪れたという。
『千載集』に「あすもこむ野路の玉川萩こえて 色なる波に月やどりけり」という 源俊頼の歌がある。
今は小さな池と歌碑を残すのみである。





姥が餅 
JR草津駅東口からまっすぐ約800m行くと、国道1号線に出る。その交差点の西角に、
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」にも描かれている姥が餅を売る店がある。現在屋号は、
「うばがもちや」になっている。江戸時代の道中案内記には必ずその名が記される、
草津宿を代表する名物であった。松尾芭蕉の句に「千代の春契るや尉と姥が餅」と詠まれ、
その名は一層広まったといわれている。古くは矢倉(現、草津市)の地にあり、
東海道と矢橋街道の分岐点に店を出していたが、1889(明治22)年に湖東鉄道(現、東海道本線)
が敷かれると人通りも少なくなり、やがて草津駅の開設によって駅前の大路井
(現、草津市大路1~3丁目・西大路町)に移転し、さらに第二次世界大戦後、現在地に移った。
姥が餅は、伝説によれば、草津の郷代官(守護代)六角(佐々木)義賢の子孫がゆえあって殺され、
3歳の遺児のため乳母が小さな餅に白い砂糖をのせたものを売りながら、その子を育てた。
徳川家康がこの地を通り、その善行を聞いて、誰いうことなく姥が餅と名づけられたという
(3歳の遺児は、義賢の曽孫という説もある)。現在、この店には古い
文献が多く保存されている。



ふるさと「矢倉」風景の記憶絵に見る今昔


草津宿場町から近江八景「矢橋(やばせ)の帰帆(きはん)」へ 2008/4/3(木) 14年前歩いた

滋賀県の歴史散歩 上 大津・湖南・甲賀
宿場町草津と湖辺の史跡
東海道と中山道が交わる宿場町と、琵琶湖沿いの浜街道の史跡巡り
草津本陣
天井川で知られた旧草津川(廃川、河道のみ残る)の河底をくぐる草津トンネル(全長44m)
に出る。そのトンネルの南側出口は、東海道と中山道が分岐する草津追分で「右東海道いせみち、
左中仙道美のぢ(右東海道伊勢道、左中仙道美濃路)」と大書した石造道標(追分道標)が立っている。
道標の反対側には高札場が復元されている。トンネルから旧東海道を約50m進むと、草津本陣(国史跡)
がある。草津は、東海道の52番目の宿場町で、中山道との合流・分岐点として重要な位置を占めていた。
かつて東海道は、本陣附近から草津川の堤防に沿って上り坂になっており、架橋は許されず、しばしば
川止めされたことがあった。旧草津川の堤防へはどこからでものぼれるが、宿場景観の残っている横町(
現、草津1丁目)を経て登れば、古い町並みに昔を偲ぶことができる。なお、草津トンネルは1886(明治19)
年に完成したもので、同時に東海道も一部付け替えられ、大路井(現、草津市大路1~3丁目、西大路町)の
覚善寺(浄土宗)の南から国道1号線に至る約900mの新道できた。同年に建てられた東海道と中山道の分岐点
を示す道標(大路井道標)が現在覚善寺前にある。江戸幕府により、1601(慶長6)年に宿駅制が定められ、
東海道に品川宿(現、東京都品川区)ほか10宿がおかれると、草津宿もその一つとなった。1712(正徳2)年、
江戸幕府6代将軍徳川家宣は、全国の主要街道に貫目改所(かんめあらためしょ)をおき、過重な荷物の
継立がないかどうか取り締まったが、草津宿は品川宿・府中宿(現、静岡県静岡市)とともに、重要地とみなされ
、貫目改所が設けられた。宿場町の長さは約1.3kmで、1830(天保元)年の記録によると旅籠118軒とあり、
本陣2軒・脇本陣4軒が置かれていた。本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣であったが、
九蔵本陣は明治時代以後に絶えて、建物も取りこわされ、七左衛門
本陣だけが、ほぼ完全な姿を今に残している。この本陣は木材商も営んでいたため、「木屋本陣」ともよばれ
経済力もあり、本陣の経営も堅実であったという。1635(寛永12)年から1870(明治3)年に廃止されるまで、
235年間本陣をつとめた。宿帳に相当する「大福帳」には、吉良上野介・浅野内匠頭・皇女和宮・新選組や、
ドイツの博物学者シーボルトらが宿泊や休憩をしたと記録が残っている。
いちばん奥には上段の間があり、大名の休泊に用いられた。框により、ほかより一段高くし、天井を漆塗りの
格天井とするなど、特別のしつらえが施されている。敷地面積は4700㎡あり、母屋には40室もの部屋があった。
毎年4月に開催される「草津宿場まつり」では、時代装束による時代行列やかごかきレースが催される。

常善寺
735(天平7)年良弁により創建されたと伝えられる草津市内最古の寺院である。

立木神社
境内に高さ約2mの石造道標がある。
江戸時代の「延宝八(1680)」の刻銘があり、「みぎハたうかいどういせミち ひだりハ
中せんどうをた加みち(右は東海道伊勢路、左は中山道お多賀路)」と刻まれている。刻文より、もとは東海道
と中山道の分岐点に立てられていたことがうかがえる。

皇女和宮の昼食休憩

和宮様御膳(再現)
膳所藩の賄方(料理係)・西村藤八が
文久元年(1861)に記録した「和宮御方様 御下向御道中御献立帳」
(個人蔵)を参考に、七左衛門本陣で供された昼食を
再現したもの。当日は江戸方の精進日(近親の命日など特に仏道に励むべき
であるとされる日)にあたり、肉や魚を避けた献立になっています。
宮様の輿入れということから豪華絢爛な食膳を誰しもが思いおこしますが、
和宮自身の年齢が数え年で16歳ということもあり、その料理は比較的質素なものでした。


草津宿本陣の関札
関札は大名側が用意するので、敬称はつけない。名前の下に「宿・泊・休・小休」
などの種類が記される。宿=料理人も宿泊者側が用意、泊=本陣のまかない利用、
休=昼食休憩、小休はそれ以外。関札を本陣の主人が役人から受ける際は、裃を着けた。
関札の使用は一回のみで、置いていく。草津本陣では大切に保管し、木製のものは
約460枚、紙製は2900枚も残る。

竈 (かまど)の煙を出すため 
越し屋根 (煙だし小屋根)が設けられています。
越屋根は、大屋根の上についた小さな屋根です。昔から古民家にはよく見かける屋根です。
かまどや囲炉裏の上にあり、煙を出すためであったり、窓が開いていたりします。

草津川の渡し場
草津宿は、江戸時代に東海道と中山道の合流する交通の要衝として栄えました。これら二つの街道
は、江戸方面から草津宿への出入り口が、それぞれ草津川の渡し場になっていました。
中山道の渡し場は、追分道標(東海道と中山道の分岐点)の近くで、草津宿の江戸川の出入り口
に位置し、現在の市営宮町渋川線(商店街通り)のマンポ(トンネル)の上あたりにありました。また、
東海道の渡し場は、草津宿東端の横町道標の近くで、草津宿の江戸側の出入り口に位置し、現在の市道
大路16号線あたりにありました。

旧草津川は、川底が周辺民家の屋根よりも高い天井川であり、普段は、水の無い砂川でした。
そのため「徒歩(かち)渡り」といって水の無い川底を歩いて渡り、少し水が残っているところは、
簡易な板が渡されていたようです。天保3年(1832)の「橋銭川越賃定書」によれば、水が無くとても、
1人3文の川越賃が徴収されていたとの記録があります。水が流れている時は、人に担がれて渡りましたが、
水嵩に応じて、1尺(約30㎝)で8文、1尺5寸、2尺、2尺5寸と、段階的に増加して、3尺で32文の川越賃を
徴収され、時には、川留めになることもありました。天井川の渡し場は、草津宿の特徴的な光景として、数多く
の浮世絵や各所図会に描かれており、当時の様子がうかがえます。

草津マンポをつくる    マンポ 江戸時代、こう山の入り口などをさした方言「まぶ」がトンネル
の意味に使われ、なまったものと言われています。

中山道?中仙道?







JR大津駅→JR石山駅→JR守山駅


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