京から江戸へ下る旅 大津~石山駅 令和元年(2019年)5月25日(土)滋賀県大津市

行程  8.2km  大津 最高気温33.2(℃)
集合:10:00 JR大津駅→大津宿本陣跡→札の辻の大津市道路元標→大津一里塚跡
義仲寺→石坐神社→和田神社→膳所城跡→鳥居川一里塚跡→15:00JR石山駅

大津市
天智天皇が大津京に都を移して以来、日本の歴史において交通の要衝として、また軍事上の重要拠点として注目されてきた。
そのため、市内には日本の仏教のふるさととされる比叡山延暦寺や紫式部ゆかりの石山寺などはじめ、歴史的遺産が点在する。
2020年放送開始の大河ドラマ「麒麟がくる」では、本市ゆかりのある明智光秀公主人公として登場する。光秀公が築城した
坂本城跡や菩提寺「西教寺」などが点在し、ドラマ放映にあわせ大河ドラマや光秀公に関する展示を行う予定である。

大津e湖都市場」いいこといちば 

大津まち歩きMAP


「日傘男子」真夏日
暑さ・熱中症対策に「男性も日傘を」! 環境省が初の呼びかけ 2019年5月21日

麒麟がくる紀行 第三十三回「比叡山に棲む魔物」
滋賀県大津市 2020年11月22日
滋賀県大津市。比叡山全域を境内とする延暦寺は、最澄によって
開かれた天台宗の総本山です。
根本中堂(こんぽんちゅうどう)では、現在、大改修工事が行われていて、
静寂な堂内には最澄がともして以来1200年間、燃え続けている「不滅の法灯」
が今も光り輝いています。
三井寺(みいでら)の名で親しまれて園城寺(おんじょうじ)。光浄院(こうじょういん)
は織田信長や足利義昭も立ち寄った格式の高い子院です。
信長は園城寺の境内に陣を置き、焼き討ちの指揮をとりました。織田軍はは
無道寺坂を駆け上がり、根本中堂や大講堂がある一帯を焼き払ったと伝わります。
琉璃堂は焼失を免れ、現存する唯一の建物です。
悲劇に見舞われた延暦寺は、今も多くの人々の信仰を集めています。


京から江戸へ下る旅 大津~石山駅  

 今昔マップ

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

滋賀県大津市
源義仲が頼朝軍と戦い、討ち死にした地です。旧東海道沿いにある義仲寺(ぎちゅうじ)は、
その名のとおり、義仲を弔うために建てられました。本堂には、聖観世音菩薩しょうかんぜおんぼさつが祭られ、
その隣には厨子ずしに納められた義仲の木像が安置されています。平家滅亡を目指し、戦った義仲。その生涯に、
ある名高い俳人が熱い思いを寄せていました。松尾芭蕉。奥の細道の旅の途中で、義仲について詠んだ句があります。
「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」
芭蕉は、たびたびこの寺を訪れました。1694年に亡くなった芭蕉は、遺言に従い、義仲の墓の隣に埋葬されました。
2人の墓が並ぶ姿は当時のまま。芭蕉の思いは今もなお、義仲に寄り添っています。

 大津宿
五条大橋から11.8km、草津宿まで14.4km 本陣2軒 脇本陣1軒 旅籠71軒
大津宿本陣跡 滋賀県大津市御幸町御幸町の滋賀労働基準局付近にあたる。
大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅。現在は、
明治天皇聖跡碑が建つだけだが、江戸時代当時の本陣は広く、
3階の楼上からの琵琶湖の眺めは絶景だったという。
大津市京町1丁目

札の辻   高札が立てられた場所。東海道と北国街道の分岐点でもあった。
大津市道路元標

 大津事件の碑(此附近露国皇太子遭難之地
ロシア皇太子が亡くなった大津事件現場
1891年に、来日したロシア皇太子のニコライが大津を遊覧
していた際に、警備をしていた巡査津田三蔵に斬りつけられた
「大津事件」の現場。大国ロシアに恐怖を抱いた明治政府は
津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう大審院長の児島惟謙に
迫ったが、児島は司法権の独立を貫き、刑法どおり無期徒刑
とした。事件現場には碑が建っている。
ピスタチオ大福  

大名行列(お茶壷道中)が行き交う街道沿いの茶屋
しばし休憩しました。
 旧東海道沿いに店を構える御饅頭処 餅兵(もちひょう)」は、
創業が江戸時代の宝暦年間(1751~1763年)という長い
歴史を持つ和菓子店です。昔は店の前に床几を置き、
ここで旅人が足を休めて一服したといいます。
 中川誠盛堂茶舗
昔、東海道を往来した旅人に茶を売ったのが、当店の始めと
言われています。当時、茶は、僧や高級武士、一部の町人の
飲み物で旅人の土産として珍重されていました。
義仲寺(ぎちゅうじ)
義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍
に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)
(1154-84)をここに葬ったことに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、
室町時代末期に建立したといわれています。
 
 石坐神社いわいじんじゃ
 和田神社

石田三成ゆかりの和田神社、イチョウの木

県内では他に例を見ない巨木で、
和田神社のご神木として湖上からの良い目標となっていたようです。


膳所城跡公園
 膳所城は、
慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、翌慶長6年に
大津城を廃して築かせたもので、近江から京へ入る東海道を押さえると
同時に、大阪方に備える役割を担っていた。

小型定置網(えり)漁業の仕掛けあります
湖岸から沖合に向かい矢印型に網を張り、湖岸によってきた魚の習性を
うまく利用し、「つぼ」と呼ばれる部分に誘導し閉じこめて漁獲する方法です。
13時~13時50分 昼食 かつくら大津店  とんかつ定食
 若宮八幡神社 (わかみやはちまんじんじゃ)
白鳳4年の創始と伝わる古社で膳所の旧東海道筋に鎮座する。
天智天皇がこの地へ行幸の際、紫雲がたなびき、金の鳩が付近の
大木に止まるのを見て、この地へ社を建立することとしたのが始まりとされる。
江戸期には膳所の多くの神社同様膳所藩の庇護を受け、
現在の表門は膳所城の犬走門を移築したもの。

 鳥居川一里塚跡   痕跡ありません
 JR石山駅前の松尾芭蕉像
「野ざらし紀行」の旅の途中、大津に滞在していた芭蕉のもとに門弟が集まり湖南蕉門が形成された。以来、
大津が気に入った芭蕉は今の義仲寺にあった草庵に滞在、その後、幻住庵を構え、4か月を過ごした。
英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」
芭蕉の代表作『奥の細道』。芭蕉=隠密説の真相は?旅を通して芭蕉が到達した新しい俳諧の境地とは?
“俳聖”以前の芭蕉に光をあてながら、謎に満ちた名作を徹底解剖!俳諧を一流の文学に高めた“俳聖”
松尾芭蕉。だが、実際の芭蕉は江戸で水道工事の請負人をつとめ、さまざまな職業や身分の人々と
幅広く交流した俗人でもあった。そんな芭蕉の代表作が『奥の細道』。東北へと旅立った元禄2年は幕府
と仙台藩が鋭く対立していた時期。歌枕を巡る他に何か目的があったのか?そして旅を通して芭蕉が
到達した新しい俳諧の境地とは?“俳聖”以前の芭蕉に光をあてながら、謎に満ちた名作を徹底解剖!

京から江戸へ下る旅 京三条~大津

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