中山道を江戸へ下る旅 JR草津駅~JR守山駅
                   滋賀県草津市・栗東市・守山市 令和4年(2022)4月17日(日)

行程 5km 旅人5人 前日に比べ快適な日でした。
二日目 起点:9:30 JR草津駅→地蔵尊→伊砂砂神社→線路をくぐる→市境(草津市から栗東市)→
百々川橋→ 交差点→佛眼寺地蔵堂→大宝神社・芭蕉句碑・道路元標→伊勢道→
古高俊太郎生誕地標柱→淀藩領界石→住蓮房母公募標石→今宿一里塚(128里)→
木内石亭碑 本像寺→樹下神社→土橋→守善寺→志那道→かたた屋→ 終点:JR守山駅


草津川跡地公園
メロン街道~浜街道の約1.2kmが「ai彩広場」、琵琶湖線~市道大路の0.8kmが
「de愛ひろば」。終日開放され、トイレもきれいだ。

第54回 草津宿場まつり 2022.4.24(日)10:00~15:00
今こそ出会おう 新時代の草津へ
雨天中止


覚善寺の追分道標

草津一里塚
中央分離帯に「一里塚跡」と手書きの小さな板がある。江戸日本橋より
129里目。

伊砂砂神社
雨乞いのお札に奉納した「お花おどり」は、「本踊り」は30年か50年
ごとだが、毎年9月に稽古踊りが行われる。境内の二宮金次郎像は台座がなく、
目線より下で見るのが新鮮だ。

大宝神社
鳥居前の大宝村大字村の道標元標(レプリカ)は里程標も兼ねる(旧粟太郡役所、
旧草津警察署、京都伏見の第十六師団司令部、大津駐屯の歩兵第九聯隊)。大正6
(1917)年の本物は粟東市歴史民俗資料館に保存されている。

松尾芭蕉が「へそむらの麦まだ青し春のくれ」と詠んだ地で境内に句碑がある。


大宝村大字綣元標
(正面)大津市元標を距てること、四里十八町三十間五尺。(約17.730m)
    栗太郡役所を距てること、二十四町三十一間四尺。(約2.700m)
    草津警察署を距てること、二九町二十五間。(約3.200m)
    大宝村大字綣元標。
(向かって右側面)
    第十六師団司令部最迫より、九里八丁(町)十二間五尺(36.200m)
    大津第連帯最迫より、四里三十町十三間五尺(約19.000m)
(向かって左側面)
    東は大宝村大字野尻より、十一町六間三尺、(約1.200m)
    南は大宝村大字苅原より、八町四十間一尺、(約950m)
    西は大宝村大字北中小路より、五町二十一間三尺、(約590m)
    北は物部村大字二町より、四町五十八間三尺、(約540m)
(裏面)
    大正六年二月十五日建設、寄附・西田哲太郎
元標の復元
 旧元標は設置さて80年余りの年月を経ているため、風化がひどく文字の
判読が困難な状況であることと、交通事故により中程から半分に折れるなど
破損が著しいので、平成12年(2000年)に総意と工夫の綣づくり事業により
復元したものです。
尚、旧元標は栗東歴史民俗博物館に保存されています。 綣行政区



栗東市綣です。
綣(へそ)の地名のいわれ
〇綣には弥生時代からの各時代の遺跡が多数あります。
また、近くには縄文時代の下鈎遺跡、弥生時代の伊勢遺跡があります。綣には遺構、
遺物より弥生時代後期の頃から人々が定住し農耕生活を営み始め、次第に集落が
形成されたと考えられます。
〇周辺にも同様の集落が出来、文字がない時代に各集落を分別するため当時の人々に
より、この地を「へそ」という呼び名が付けられ呼称されていたと考えられますが
何故「へそ」なのかは定かではありません。
綣の漢字のいわれ
文字(漢字)が伝来し「へそ」の集落の呼称名に、人々が考えた漢字が「綣」
であります。
伝承されている「いわれ」の主なものは
〇この地では布を織るための糸づくりが盛んで、植物繊維から糸を紡ぐとき糸を巻き
取った球状の物を「へそ」と言った事から「糸」を「巻」くの二字を一字にして
「綣」となったと言われています。
〇「へそ」の北に隣接する荘園の木綿園庄(現在の守山市南西部)では、木綿の材料と
なる楮の栽培が盛んで、「へそ」では楮から糸を紡ぎ紡錘に巻き取り「へそ」にして
いたことから「綣」になったとも言われています。
〇「へそ」の小字の花園にあった花園院極楽寺に帝に縁のある高貴な女性が住み、都の
思い出にひたりながら糸を紡いで機を織っていましたが、機を織るときに使う紡いだ
糸を巻き取った「へそ」に因んで「綣」の地名になったと言われています。
史料で見る綣の地名
〇綣の地名が史料で最初に見られるのは、京都市東山区の天台宗門跡寺院青蓮院に
伝わる寛喜元年(1229年)青蓮院文書「十楽院門跡領目録」に綣村保の
伝領経緯が記されている文書です。
〇諸説がありますが、万葉集巻一の十九の「綜麻形の林のさきの狭野榛の衣につくなす
目につくわが背」(原文は万葉仮名)この歌は額田王が近江に下った時、一行の中に
いた井戸王の歌と言われています。この「へそがた」の「へそ」は当地「綣」である
と言う有力な説があります。近江大津宮へ遷都は西暦667年であり「へそ」は
当時存在していたのではないかと思われます。
平成24年12月
特定非営利活動法人 街道をいかしたまちづくりの会

古高俊太郎
文久元(1861)年、京都河原町四条で福岡藩黒田家御用達の古道具屋杵屋
を営みながら、長州間者として倒幕活動を武器調達をしていた。元治元(1864)
年、新選組に捕縛されて厳しい拷問を受け、御所焼き討ち計画を自白して池田屋
事件につながった。禁門の変の火災時に斬首された。

ふるさと渋川・風景の記憶絵
昭和30年代を中心として、この地での心に残る風景の営み、四季の移ろいなどを一枚の絵に
しようと、2年の歳月をかけて制作したもの



今宿一里塚
JAおうみ富士農業協同組合守山支店の前に、県内に唯一残る今宿一里塚(県史跡)がある。
現在、東側のみ残っているが、もとは道の両側にあったことがわかっている。昭和50年代までは民有地であったが、
1987(昭和62)年に、守山市が買収・整備して貴重な交通史跡として保存されている。
先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、脇芽が成長して現在にいたってます。
一里塚は滋賀県内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置。
明治以降、交通形態の変化による道路拡副や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは
消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。



守山宿
古代東山道筋に位置し、紀貫之ら多くの文人。・武人がこの地を通ったことが紀行文や和歌に残されている。また、
1642(寛永19)年、江戸幕府は中山道を整備し、守山を67番目の宿場とした。1714(正徳4)年、森山本町だけでは
不十分なので、今宿と吉身が加宿となり、「京発ち守山泊まり」(朝、京を発ったら守山で日が暮れる)の言葉
とともに、大いに発展した。

三戸津川のホタル
守山は、古くからゲンジボタルの群生地として知られた。現在、世界で約2000種、日本では約45種のホタルが生息する。
明治35(1902)年から天皇陛下への献上が始まり、大正13年には第一号の天然記念物の指定となる。


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