西国街道 兵庫を歩く 播磨高岡〜御着(ごちゃく) 兵庫県姫路市
10/04/17(土) 10/09/4(土) 2013/1/10(木)
2019/12/14 ブラタモリ#151
ブラタモリ「姫路城〜姫路城で江戸城のロケをするのはあり!?〜」
2013/1/10(木)青春18きっぷの旅
姫路城大天守保存修理見学施設 天空の白鷺 平成26年1月15日で閉館(素屋根解体作業開始に伴い)
昭和の大修理から約半世紀が過ぎ、姫路城大天守には傷みや汚れが目立つようになってきました。
漆喰壁の塗り直しや、屋根瓦の葺き直しを中心に、約5年をかけて行う大規模な工事。
2014年(平成26年)のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛」 姫路から天下に翔けた男
天文15年(1546)に御着城主・小寺政職の家老黒田職隆の嫡男として姫路城で生まれた
黒田官兵衛孝高は、稀代の軍師として羽柴秀吉の播磨制定や中国攻め、四国・九州征伐
などを補佐し、その天下統一事業を支えたことで知られています。
官兵衛紀行
1546(天文15)年、黒田官兵衛は姫路で生まれました。
現在の姫路城には、官兵衛ゆかりといわれる石垣や、
十字紋の鬼瓦を見ることができます。
姫路市にある広峯神社は、農業の神として崇拝され、
周辺諸国から多くの人々が訪れました。
神社には神主に仕える御師(おし)という人々がいて、
各地の信徒を回り、豊作祈願のお札などを配り歩いていたのです。
官兵衛の祖父・重隆は、お札と一緒に黒田家に伝わる目薬を御師に
売ってもらい財を成したといわれています。
この広峯神社は、黒田家の発展に深く関わっていくことになるのです。
八木町 この辺りは城下の町割によって町家を道沿いに 斜めに建てるようにしました。 通称「ノコギリ横丁」とよばれています。 |
|
姫路城 入城料400円 8F 屋根修理の見学 入館券200円 最上階の大屋根を間近に |
|
7F 壁面修理の見学 漆喰壁を間近に |
|
瓦屋根模型 | |
西の丸の櫓群 本多忠刻と徳川家康の孫・千姫の居館として 千姫の化粧料10万石で元和4年(1618)に造営した 建造群です。 |
|
力の櫓への土塀 屋根目地漆喰 匠の技です。 |
|
りの一渡櫓 特別公開 大天守の鯱(しゅち) 昭和の鯱瓦 高さ 6尺1寸5分(約186cm) 総重量 約278kg しっぽ 約42kg 本体 約202kg ひれ (上)約7kg×2 (下)約10kg×2 |
|
大天守鬼瓦 五三桐の家紋が入っています。 南千鳥棟に使用されていた |
|
出土四半瓦 揚羽蝶紋 昭和の大修理の際に、備前丸から出土した |
播磨国総社 楼門 2014/6/15 放送 「官兵衛」紀行 かつて兵庫県姫路市にあった国府山城(こうやまじょう)は、 官兵衛の父・職隆が築いたとされる城です。官兵衛は播磨を平定した 秀吉に姫路城を譲り、この城に移り住んだといわれています。 1580(天正8)年には秀吉から領地1万石を与えられ、 官兵衛は晴れて大名となりました。新たに黒田家の旗を 制定した官兵衛は、 歴代の姫路城主が信仰した播磨国総社に参詣。 職隆と共に7日にわたって祈とうを受けたと伝わっています。 秀吉に忠義と功績を認められた官兵衛は、 軍師としてさらにまい進するのです。 |
姫路城下絵図
山城部(本丸・二ノ丸・西ノ丸)、南半分に城主の居館(御居城・向御屋敷・三ノ丸に相当)が置かれ、
姫路城の中核となる枢要部とした。
その外側の城下へは、中堀以内(中曲輪)に総社など一部の神社を除いて、藩の公施設や侍屋敷を
広く展開させつつ四方を固め、外堀以内(外曲輪)に町屋と下級武士の住居を並べ、
城下の要所には寺院を配置している。
桃色:侍屋敷、緑色:町、黄色:道、紫色:寺、空色:水、赤色:神社、茶色:組屋敷、こげ茶色:家老下屋敷
池田輝政が慶長6年(1601)より8年の歳月を要し完成した城は、西国大名の牽制と、大阪城への備えであった。
完成後に達した石垣構築技術を駆使した平山城の典型で、姫山に豪壮な天守と本丸を築き、元和3年(1617)、本多時代
に鷺山に優美な姿の西の丸が整備され、今の姿が完成した。城は、主要部(内曲輪)を中心に、その周囲の地形を巧みに
利用し、城下町を内包した東西1418m南北1854mに及ぶ総構えを形成している。堀は、姫山の東北麓を起点とし、左回り
に内曲輪を取り囲む内堀を形成し、堀は、そのまま武家地と寺社地が置かれた中曲輪を取り囲む中堀を形成し、せのまま
町人地となる外曲輪を囲む総延長5.2kmの外堀(総構え堀)が設けられていた。内堀から中堀へと、渦巻き状に城北東部
の野里まで総延長約12.5km延びる構成となっていることから、渦郭式縄張とも呼ばれる。
野里と好古園 10/09/4(土)
姫路城下の「外町」として、但馬、東播磨、北播磨方面の物資集散の役割を果たし、
慶雲寺、雲松寺などの門前町として、江戸時代を通じて栄えた。
野里は水陸交通の要地であった。水路は船場川より播磨港へ、
陸路は西国街道が野里と八代の南部を通っていた。
西国街道は後に姫路城の南に変更された。
但馬道の窓口として栄えた町 野里 野里鋳物は古くから有名な産物で、その鍋は 播磨鍋(野里鍋)といって、その製造の歴史は 古く、鍋のほか、釜や鍬、そして釣鐘も鋳造していた。 |
|
慶雲寺 お夏清十郎比翼塚 お夏 本町の米問屋 但馬屋九左衛門の娘 清十郎 室津港の造り酒屋 和泉清左衛門の息子 19歳の時但馬屋に勤める いつしかお夏と清十郎は深い相想の仲となったが、 九左衛門はこれを許さなかった。 思いもよらぬ濡れ衣に依って、25歳の時清十郎は はかなくも刑場の露と消えたのである。 このことを知ったお夏は、黒染の衣に身をつつんで 読経三昧に暮らし、ひたすら 清十郎の冥福を祈った。 |
|
明珍本舗 第五十二代 明珍宗理 現代の当主は平安時代から800年以上続く明珍家52代。 作られる製品も火箸から風鈴、花器へと時代とともに 変化はみられるが、 その製造の秘伝により世界的な品物が製造されている。 |
|
値段は数千円から何万円まで。 明珍火箸風鈴 つくし型・瓦釘型・つづみ型・わらび型 |
|
工場の内部 見せて貰いました。 京都九条の甲冑師だった時に、近衛天皇の勅命で鎧や 轡を作り献上いました所大変気に入られ、明珍の姓を 賜りました。その後、千利休の注文を受け茶室用火箸と して作られたのが明珍火箸。 打ち合わせると、鈴虫の声色のような澄んだ音を 響かせます。 |
|
雨のかからない軒下に吊るしてください。 植物性油で、時々軽く手入れして下さい。 酷暑の夏 チリン・・・・。 余韻の長いきれいな澄んだ音色です。 暮らしの中に響く伝統の技 明珍火箸 |
|
姫路城 大手前公園 |
|
好古園 姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」は、 世界文化遺産国宝姫路城を借景に、 姫路市制百周年を記念して 造営され、平成4年に開園した 池泉回遊式の日本庭園です。 押絵と人形展 9月4日〜20日 |
|
猛暑 水やりは大変な作業 |
10/04/17(土)
予定した3月6日は雨で中止、前日の雨もあがり 絶好の散策日和でした。半年ぶりの再会でした。
各藩の代表15名 姫路城下を歩く。 姫路城は平成の大修理が始まります。
クレーンの台座準備し城を囲う 見おさめです。
4/16(金) 欧州19カ国、空港閉鎖 アイルランド大規模な火山噴火、火山灰が欧州各地に達し。
10/04/17(土) 集合 10:30 JR姫新線 播磨高岡駅 説明・紹介ありました。 10:40 出発 歩きました。 北へ5丁 「高岳神社」 |
|
今宿 郵便局 西国街道碑 |
|
隣に 高岡村道路元標 |
|
龍野町 初井家 市指定景観需要建築物 |
|
小姓町 船繋石と西国街道碑 |
|
地内町 船場本徳寺 |
|
船場川 船場八景 鷺と水面に桜の花びら浮かび流れてます。 |
|
西二階町 姫路城下 二階建て多く構えられた。 町名の由来と云われている |
|
西二階商店街 元禄時代から続く 姫路銘菓「玉椿」の店伊勢屋本店 |
|
姫路名産 ゲット 「舌にして 姫路をおもふ玉椿」 「上古に 大椿あり 八千歳をもって 春となし 八千歳をもって 秋となす」 杵屋 「千年以上の歴史を刻んだ播磨屈指の古刹 播州書写山円教寺」 杵屋創作西洋菓子 「書写 千年杉」 |
|
さらに歩くと 南側に 椀箱屋三木氏本陣跡の看板 「城下町初期の豪商で18世紀初め本陣となる。 当主は三木助右衛門」 伊能忠敬も泊ったとある。 |
|
お夏清十郎の物語、 但馬屋があった所。 かもめ屋を右曲がる 坂元町 藤森耳鼻咽喉科の南西角には 高札場「札の辻」 姫路城大手の中之門筋と 西国道の交差した多くの人々が往来した |
|
家老屋敷跡公園 姫路城 昼食と全員の写真撮影 平成の大修理が始まります |
|
大手前通り 渡ります 遠くに姫路城 |
|
中濠 内京口門 |
|
京口町 東光中学校の前に「外京口門跡」の案内板 |
|
JR播但線 「京口駅」 | |
市川 一本松の信号機からJR山陽線渡り JR新幹線高架下をくぐります 山脇へ |
|
山脇 溺死者供養塔 寛延2年(1749)7月3日 姫路城下は大洪水に見舞われた、 溺死者480人にものぼった。 |
|
御国野(みくにの)町西御着 山陽道一里塚跡 |
|
15時10分 JR御着駅 次回は秋の予定です |
正條(しょうじょう)宿← 姫路宿→御着(ごちゃく)