明石御城下を歩く  兵庫県明石市 2011/7/23(土)

青春18きっぷ
姫路乗換→加古川乗換→JR明石駅→明石公園・明石城跡→織田家長屋門→善楽寺(戒光院・円珠院・実相院)→
(蔦の細道)無量光寺→魚の棚→道標→光明寺→亀の水→月照寺・柿本神社→本陣→大蔵海岸→昼食→JR明石駅

中国高速鉄道が脱線。
ノルウェー連続テロ。
24日正午 完全地デジ化。大相撲名古屋場所14日目 日馬富士が白鵬を破り千秋楽待たず2度目の優勝。

播磨国明石城絵図(はりまのくにあかしじょうえず)


都に近い境界の地

明石駅 
 明石城元和5年誕生。2代将軍秀忠の命で、外様大名が多い西国の備えとして
姫路城と尼崎城の間に築かれました。高さ約20m、幅約380mの高石垣を誇る平山城
本丸の四隅に三重櫓を設けたのが大きな特徴。
明石藩は、
徳川家康の曾孫で明石、三木、加古、加東の四郡10万石を領した
小笠原忠真(たださね)が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて築いた城である。
巽櫓(たつみやぐら)
本丸の南東端に築かれた三層の櫓である。
桁行き5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ7間1寸(12.19m)の隅櫓で、
妻部を東西に置く入り母屋づくりである。
 坤櫓(ひつじさるやぐら)伏見城を移築したと言われています。
天守閣が造られなかった明石城では最大の規模をもつ櫓である。
天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割を果たしたとみられる。

幕府の安定につれて城の機能が藩の政庁と藩主の居所に変化したことなど
考えられます。

明石藩主は戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家と変遷。
天和2(1682)年に越前大野から松平直明が入封して以降、10代にわたって藩を
治め、明治の廃藩置県を迎えます。
善楽寺(戒光院・円珠院・実相院)

平清盛供養塔
 (蔦の細道)無量光寺

無量光寺山門前の「蔦の細道」は、
光源氏が「浜辺の館」から明石の君が住む「岡辺の家(岡辺の宿)」へ
通った道と言われています。

岩屋神社 
明石たこ 

蛸壺や はかなき夢を 夏の月   芭蕉
 魚の棚(うおんたな)商店街

瀬戸内海の明石海峡に近く全長350メートルのアーケードには新鮮な海の幸を
扱う飲食店や総菜店がずらいと並ぶ。

タコの柔らか煮 焼きアナゴ  春にはイカナゴのクギ煮

道標 

宮本武蔵が姫路から派遣されて町割りの設計にたずさわったとされる。東に京口門
西に姫路門を造り城下町の道をコの字に曲げるなど戦略上の備えは十分

樽屋町、中町、本町、細工町、鍛冶屋町など城下町特有の町名は今も残る。

浜光明寺
朝顔光明寺・・・光源氏が月見をした池
 市立天文科学館

人丸町
柿本人麻呂を祭る柿本神社

月照寺
道標 

明石を象徴するのは、東経135度、子午線が通る、時のまちとしての姿です。
子午線とは、子の方向(北)と午の方向(南)を結ぶ線のことです。
一般的な子午線はどこにでもありますが、
日本の標準時の基準となる東経135度の子午線はここ明石を通っています。

宿場は京口門を出て1km先 大蔵本町にあった。

 大蔵会館のある場所が大蔵谷宿本陣のあった場所とされる?
街道の南側 大蔵中町に本陣あった思われる。

江戸期には山陽道屈指の宿場として栄え、宝永元年(1704)には
屋敷294軒、人口1781人、本陣・旅籠61軒、馬46匹、駕仲間80人の
記録があり、その繁栄は明治時代末まで続いた。
稲爪(いなつめ)神社 

大蔵谷の産土神として古くから信仰を集めている
 大蔵海岸

淡路を遠望する白砂青松の風光明媚な大蔵海岸
 昼食 矢倉
 明石たこ

明石のタコの柔らか煮
 明石銘菓 分大

明石もなか
明石焼とタコ焼との違い  ふんわりとだしの香る明石焼きは絶品
 違い 明石焼 タコ焼
形  丸いが、平ぺったい  ボール状
 中の具  タコだけ   タコ・紅生姜・ネギなど
 硬さ  柔らかくてもくずれない  硬いダンゴ状
 鍋   銅板製   鉄板製(鋳物)
 食べ方  つめたい汁で冷やして食べる  ソース・青のりなど
 材料  玉子が主である   メリケン粉が主である
 鍋は銅板製  


たこ焼き
鉄板製(鋳物)
 食べ方 つめたい汁で冷やして食べる


大阪では小麦粉にコンニャクや肉などを入れたものが主流で
チョボ焼やラジオ焼と呼ばれていた。昭和の初期「明石では、
タコを入れている」この話にヒント たいへん評判になりました。
大阪のたこ焼きの誕生です。

大阪のたこ焼きのルーツは、明石焼(玉子焼き)にあるといわれています。


魚住・明石〜明石城下〜明石〜塩屋播磨・摂津の国境

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