「竹原市新庄〜本郷」 近世西国街道散策 2004/3/21(日)
西国街道・安芸の旅(12回)(竹原市新庄〜三原市本郷町本郷)(10km)
西川、殊勲の逆転打 コイ開幕3連勝
27日に千秋楽を迎えた大相撲春場所で新関脇として
86年ぶりの優勝を果たした関脇若隆景(わかたかかげ)
3/28米アカデミー国際長編賞に「ドライブ・マイ・カー」 濱口監督作
日時:令和4(2022年)年3月27日(日)
集合:JR西条駅9時10分(南階段下) 16人の旅人
今回は、バスで、歩く区間の起点まで移動します
西条駅9時20分発竹原行乗車(芸陽バスに乗りますので10分前に集合です。)
起点:竹原市新庄バス停(バスで移動し新庄バス停10時02分到着)
解散:三原市本郷町JR本郷駅16時00分
新庄交差点 広島県警交通取り締まり中でした。
13:00〜13:50 昼食 あつあつ 揚立 てっちゃん 本郷店
平成30年豪雨災害
10時 新庄バス停下車 10時25分出発 16時前 JR本郷駅解散 11km。
田んぼでは耕運機で田おこし。ツクシ取りの家族ずれ。天候は寒くもない、うす曇り 途中パラパラと小雨。
広島空港(本郷)離発着する飛行機を何度も見る。新庄では空港の赤い誘導路遠くに見えました。
古代の山陽道があり 馬が走った道。古墳、謂れのある神社多い。
2回目の散策となります、サテライト山陽駐車場横から日名内の街道。 以前 通行不能であった所。
今回は倒木、粗大ごみ避けながら 何とか通ることできた。感動した。一里塚跡辺りに石垣あった。
行程
横大道→瓦坂峠→日名内→南方神社→貞丸古墳→御年代古墳→梅木平古墳→心光寺
甑天満宮→菅公御手堀井戸→沼田川越え・常夜燈→寂静寺→恵美須神社→本郷駅
森の国スタンプラリー 梅木平古墳・菅公手堀井戸・楽音寺でスタンプ押しました
健康への道100選
横大道
ここから瓦坂峠へ 雨乞い地蔵 |
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瓦坂峠
熊笹が胸までありました。 小川にクレソン。 |
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サテライト山陽(けいりん場外車券売り場)
街道は駐車場の横へ |
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日名内峠
前は荒れて通行できなかった。 今回は粗大ごみ・倒木さけて通行しました。 一里塚跡には石垣ありました。 |
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街道 国道2号線横切る
日名内から追分へ |
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南方(みなみがた)神社の境内で昼食
二本松古墳の石棺ありました。 境内にある石棺の実物大の複製が福山市にある |
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通行手形あらためました
「新庄」は梅のつぼみ。 |
貞丸古墳
昭和24年10月28日 県史跡指定
この古墳は御年代古墳の西方約300mのところにあり、 |
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御年代古墳 昭和8年4月13日国指定史跡
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玄室は長さ3,45m、巾2m、中央に花崗岩の石棺 (長さ2,4m、巾1,05m、高さ97cm、刳抜形)があり、 前室は長さ2,7m、巾2m、この玄室の中央にも家形石棺 (長さ2,25m、巾1,25m、高さ87cm、刳抜形)がある。 この古墳は明治28年村人が国道修理用の石材を割石した ところ、羨道の一部であったことから発見されたものである。 特に、この石棺の蓋石は両方共、屋根形で表面も非常に 優美に削られている。このような横穴式石室は大陸に発達 した墓制の影響を受けて6世紀−8世紀の間に於いて我国 でも流行したもので、この古墳の如く玄室が複数の複室墳は その影響の最も顕著ななものであろう。 特に玄室の天井や羨道は巨大な一枚の截石で立体的に築造され、 計算し盡された精緻な内部構造は優れたものである。 そして巨石運搬の技術、石の刳り抜き、研磨の技術、 構築方法のこれらの全ては恐らく大陸伝来の新技術に よらなければ不可能であったと考えられる。 なお、この古墳は今から1300年位前の築造と考えられ、 日本に慚やく文字が渡来した頃のことで古墳の主の名前も 知ることはできないが恐らく沼田地方の小部落国家の首長 の墓であろう。 石棺の中から発見された副葬品(金環1、金張環2、銅環1、 剣1、その他)は国立東京博物館に収められている。 |
南方村役場之跡
大正時代まで使われた |
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本郷中学校の西側 | |
梅木平古墳 昭和24年10月28日県史跡指定 |
奥行13.1m、巾2.9m、高さ4.2m 梅木平古墳は下北方宮地川にあり、6世紀末から7世紀初頭 にかけられて造られたと考えられている。6,7世紀の後期古墳 は家族墓の性格が強くなり、山麓に群集墳を形成するようになる。 広島県最大の横穴式石室であり、日本の巨石墳の列に並ぶ 規模を持っている。石室は入口を東に向け開口しており、 玄室奥は両袖、前は片袖で、羨道と玄室とに区別している。 奥壁には、巨石が三段に、側壁には、三段ないし四段に、 積まれており、巨石の隙間には、小さな石が、補ってあり、 天井には、玄室に四枚、羨道に四枚の巨大な石を架けてあり、 側壁は、天井に向かって大きく持ち送り、玄室の天井では、 幅1.8mにまで狭められている。 玄室の床面には、小壁が露出している。副葬品などについては 明らかでない。今から約1350年前、その規模から淳(沼)田佐伯部 を管理した佐伯直など、有力支配者の家族墓と考えられる。 正徳5年(1715)の名所旧跡帳には、「梅慶俺塚」と記されている。 この古墳を中心にして数百の箱式古墳が散在していて、古代には 大聚落であったことが想像される。東に接する寺院跡、横見寺址 (奈良前期の建立)はこの古墳に葬られた氏族の氏寺的のものと して注目されている。 古墳の墳丘上にある小堂には、この寺にあったものと考えられるが 朽損した平安前期の仏像二躯が祀られている。 |
心光寺
街道時代の石垣を残す |
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専教寺 | |
甑天満宮(こしきてんまんぐう) | |
菅公御手堀井戸
森の国スタンプラリー |
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沼田川渡る
本郷橋のたもとに常夜燈がある
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寂静寺 | |
恵美須神社
境内に鯛の2枚合わせの鳥居・
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関連サイト