上下代官所跡の発掘調査 2008/9/6(土) 広島県府中市上下町

 府中教育委員会 2008年9月6日(土)10時10分〜10時40分 10時予定 にわか雨で遅く説明会となりました。

石州街道へ道のり
福山(五里)府中(五里)上下(三里)吉舎(三里)三良坂(三里)三次(二里)布野(四里八丁)備後・雲州 
赤名(一里) 雲州・石州 酒谷(一里半)九日市(二里)浜原(十八丁)小原 ヤナシオ(五里)大森

自宅→上下へ道のり  51km・1時間35分のドライブ。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」07/6/28
世界文化遺産への登録を決めた。
ユネスコの諮問機関が登録延期を勧告し、登録見送りが懸念されていたが、
逆転で世界遺産入りが決まった。国内14件目。

08/9/1(月)に 福田首相 辞任表明、自民党総裁選挙は5人以上立候補、告示日10日には何人で?

9月6日 力士大麻汚染・・露鵬・白露山 専門機関による精密検査でも再び陽性反応しめした。
      
      第13回パラリンピック北京大会の開会式

2019年11月12日 (火)880日目 広島県三次市 こころ旅 2019
府中市上下町の翁座。大正時代に建てられた木造の芝居小屋
 より出発
甲奴町(こうぬちょう)小童(ひち)の武塔(むとう)神社



現地説明会資料

2008年度 上下代官所跡確認調査
調査期間  2088年7月24日〜9月下旬予定
調査面積 約65u

上下代官所とは?
上下代官所跡は、江戸時代に置かれた、備後・備中(広島県東部・岡山県西部)の幕府領を管理する役所
(代官所・陣屋)跡で、昭和16年(1941)に「天領上下代官所跡」として、広島県史跡に指定されています。
今回の調査は、上下代官所跡についての初めての発掘調査です。

第1トレンチ(1T)の調査成果
明治2年(1869)の絵図の検討から、敷地の北側では、現在の石垣の内側に代官所時代(正確には陣屋時代、
江戸時代中頃から末まで)の石垣と石段が存在していると想定されていました。そこで、現石垣に沿って
南北方向にトレンチ(試掘杭)を設定しました。当初2m×11mの規模でしたが、石段の状況を確認するため南側に拡張し、
最終的には2m×15mの規模となりました。
調査の結果、代官所時代の石段と石垣、学校時代(明治時代)の石段の痕跡を確認しました。
出土遺物の詳細な検討ができていないため年代は大まかにしかわかりませんが、石の積み方から見て、
検出された石垣は幕末頃に築かれ、その後石段が築かれている考えられます。石段が石垣より突出する形から、
絵図に残されているのは、この段階のものと思われます。さらに、学校として利用されている頃に、
旧石垣のほとんどの石をはずして再利用しながら、石段の端ラインに合わせて現石垣ラインまで敷地を拡張したと
思われます。その結果、石段は石垣を抉(えぐ)りこんだ形になりました。また、
通称「天領松」が写っている明治時代終わり頃の写真を見ると、現石段とは位置がずれていることがわかります。

 

第2トレンチ(2T)の調査結果
石段の北端付近に1Tと直交する形で、東西方向に1.5m×11.5mのトレンチを設定いたしました。
土層断面の観察から、代官所が造成された際の盛土の様子がわかりました。
遺構は、時期・性格不明の土杭が確認されました。

第3トレンチ(3T)の調査結果
旧調査本館に沿って、南北方向に1.5m×12mのトレンチを設定しました。土層断面の観察から、
代官所が造成される前の地形がわかりました。遺構は、小さなピット(穴)がまとまって確認されました。
これらは、小規模の掘立柱建物か、代官所の建物に伴う施設の可能性があります。

まとめ
今回の調査で、代官所の石垣や石段の一部が確認されたことは、上下代官所跡をこれからどのように
活用していくのかの検討を進める
上での、大きな成果であるといえます。今まで一般には、
現石垣が代官所時代の名残と思われてきました。しかし、石積みの方法や状況から、
そのほとんどは後世に積み直されていると考えられる上に、最近にも修築工事を実施していることから、
代官所時代の面影が全くうかがえないものとなっていたのです。また、代官所の建物跡についても、
学校や役場の建築に伴って壊されている可能性が高く、広島県史跡に指定されていても、
その場所に代官所があったというだけで、当時のものは何も残っていないという状況でした。

今回の調査により、わずかでも当時の遺構が確認されたことで、代官所跡活用の気運が盛り上がることが
期待されます。



水野家断絶時における所領分割
阿部時代は分割され、阿部藩(10万石)・肥後中津藩(2万石)・天領(3万石)



《参考資料》上下代官所跡関連年表
元禄11(1698)年 福山藩水野家(10万石)断絶、幕府領へ編入
            <元禄検地、実際の石高が15万石と判明>
元禄13(1700)年 福山藩10万石で復活 松平家
            上下陣屋(代官所)設置(約4万石を直)初代代官曲淵市郎右衛門
享保2(1717)年  上下陣屋管内の約2万石が中津藩に編入
            石見大森代官所出張陣屋に改編(手付・手代3〜4名が派遣)

明治4(1871)年  廃藩置県
明治5(1872)年  会議所を上下陣屋におく
明治6(1873)年  学制の頒布に基づき、陣屋を校舎にあて「考按舎」を創立
明治21(1888)年 校舎大改築(寄付金800円)
(昭和5(1930)年当時の上下町役場写真あり)
昭和16(1941)年 広島県史跡の指定「天領上下代官所跡」
昭和29(1954)年 合併により、新上下町誕生
昭和32(1957)年 新上下町役場庁舎落成

にわか雨で挨拶は旧上下役所内で

 

説明会は晴れました

約120名ほど熱心なファン説明聞きます

跡地の利用は公園にする計画ある。

質問します。

代官所の敷地面積は?

今ある石垣はいつ頃のもの?

第1トレンチ

代官所石垣

第1トレンチ

代官所石垣

 
第1トレンチ

学校石段

第2トレンチ
第3トレンチ
現石垣が代官所時代の名残と思われてきました。
しかし、石積みの方法や状況から、そのほとんどは
後世に積み直されていると考えられる

 

天領の松
昭和56年 枯死

資料館に展示してあります

2代目の天領の松

昭和63年同じく天領であった島根県仁摩町との
姉妹都市を記念して、同じ場所植樹。

写真を展示しパネル表示してありました

天領の松

明治初め 小学校

天領の松

明治36年 小学校

天領の松

昭和5年 上下町役場

天領の松

昭和32年 新上下町役場

遺物
左の境界石「従是西北 中津領」

右の境界石「従是南 福山領」

福山藩の国境 番所・代官所跡 備後国の国境跡

石州街道の宿場町 上下町

TOP