皇居宮殿参観と横浜憧れの名門ホテル2日間 平成29年9月28日(木)~9月29日(金)1泊2日
神奈川県横浜市・東京都千代田区
28日 臨時国会冒頭で衆院を解散 10月10日公示、22日投開票
安倍政治5年を問う 民進、事実上の解党へ 希望に合流了承
スケジュール
9/28(木)一日目
広島空港(11:15)ーーーーJL(日本航空)256---羽田空港(13:15着)==
☆★横浜市内観光(港の見える丘公園~山下公園~赤レンガ倉庫など)・約90分==
★横浜中華街を自由散策・約60分。その後、夕食は中華街の有名中華レストラン招福門にて「中華コース料理」
==横浜みなとみらいランドマーク地区(泊)宿泊先 横浜ロイヤルパークホテル
39人の旅人。
羽田空港→港の見える丘公園 |
港の見える丘公園
横浜港を見下ろす小高い丘にある公園。横浜ベイブリッジを望む絶好のビューポイント。
春と秋にはローズガーデンも見頃。
山下公園
昭和5年3月に開園した公園。関東大震災のがれきを埋め立てて作られました。
海への眺望、記念碑や歌碑など見どころの多い公園です。
横浜ベイブリッジや港を行き交う船の眺めがロマンチック。
たまくすの木(横浜開港資料館)
2018年2月25日放送
西郷どん紀行 2018年2月25日放送 NO.8神奈川県横須賀市・横浜市
2018年1月7日から放送のNHK大河ドラマ第57作。西郷どん
赤レンガ倉庫
江戸時代200年以上に渡り続いた鎖国が終わり、世界に対し門戸を開いた日本。
その交易の中心のひとつとなったのが横浜でした。
横浜赤レンガ倉庫はこうした時代の要請によって誕生し、激動の20世紀を経て現在に至ります。
往時と現在の写真を交え、その歴史を振り返ります。
9/29(金)二日目
ホテル(8:00出発)==国会議事堂==9:20★皇居宮殿参観(富士見櫓~坂下門~宮内庁庁舎
宮殿東庭~二重橋(正面鉄橋)~宮殿(長和殿)~北車寄せ~豊明殿~連翠~桔梗門)11:20
==★浅草散策(雷門、仲見世、浅草寺等各自散策)15:00
==☆東京スカイツリー眺望(浅草より)==羽田空港(17:25発が18:10遅れ)ーーJL(日本航空)265--
広島空港(18:50着が遅れ19:15)
リムジンバス19:20待ってくれた。
横浜ロイヤルパークホテル→国会議事堂 |
国会議事堂(こっかいぎじどう)は、国会が開催される建物。
現在の建物は1936年(昭和11年)に帝国議会議事堂として建設された。
東京都千代田区永田町一丁目にある。建物は左右対称形を成しており、
正面に向かって左側に衆議院、右側に参議院が配置されている。
国会議事堂→皇居 桔梗門 |
今昔マップon the web 首都圏
1年前の東京見物
2016/4/8(金)~4/9(土)歌舞伎鑑賞と東京スカイツリー展望デッキ入場
10年前にも行った
2007/2/23(金) 参勤終わり 江戸城をぐるり見回り
2019/12/14 ブラタモリ#151
ブラタモリ「姫路城~姫路城で江戸城のロケをするのはあり!?~」
2021/6/26ブラタモリ#180
ブラタモリ「江戸城~江戸城は日本の城の集大成!そして…~」
▽2階建てバスのスペシャル・ツアー!スタートは丸の内▽堀の石垣、高さが違う理由は?
▽千鳥ヶ淵の名前に隠された秘密とは!?
▽江戸城の弱点・西側の防御を徳川はどう強化した?地形から謎を探る
▽昔は海と半島だった!日比谷公園から銀座へバスは走る!
2021/7/3(土)ブラタモリ#181
ブラタモリ「江戸城と東京~江戸城は日本の城の集大成!そして…~」
2回にわたって江戸城の痕跡をめぐるブラタモリ。
その後半となる「ブラタモリ#181江戸城と東京」では外堀周辺をまわって
旅のお題「江戸城は日本の城の集大成!そして…」を探る
▽神田川は伊達政宗が掘った?船から御茶ノ水を見上げて「仙台堀」の謎に迫る!
▽城づくりと国づくりの一石二鳥?徳川が大名に行わせた工事とは!?
▽2階建てバスで外堀通りへ!東京の道と江戸城の意外な関係
▽徳川御三家の敷地がランドマークに
皇居宮殿参観経路
1.桔梗門→2.窓明館(休憩)→3.富士見櫓→4.坂下門→5.宮内庁庁舎→
6.宮殿東庭→7.二重橋→8.宮殿(長和殿)→9.北車寄せ→10.豊明殿→
11.連翠(午餐会場)→12.宮内庁庁舎→13.桔梗門
1.富士見多聞の概要
多聞とは,城郭の石垣上に建てられた長屋で,城壁よりも強固な防御施設でした。
江戸時代の江戸城本丸には,このような多聞が,各所に築かれていましたが,現存するのは,この富士見多聞だけです。
今は見られませんが,かつては,この富士見多聞から,実際に富士山を望むことができたと考えられます。
多聞櫓の名称の起こりは、大和国多聞城(たもんやまじょう)において
松永久秀(ひさひで)が城門を固める石塁の上にこの様式の櫓
を創始したことによると伝えられている。
江戸城地形図
江戸城は武蔵野台地東端の麹町台地上に築かれた。台地の下辺部(東部)は、かつて日比谷入江と江戸前島(えどまえとう)
の底部で、駿河台の開削で出た土砂によって埋められ、町人地・商業地として栄えた。幾重もの堀を巡らせた内郭を外堀が
囲み、その様子は渦巻状に見え、江戸は渦巻状都市と呼ばれる。外堀(神田川)と大川(隅田川)が合流する地点に置かれた
浅草橋門から、外堀を経て内郭へ向かって江戸三十六見附が置かれた。
江戸城は日本一の規模をもち、内郭は周囲約7.8km、外郭は周囲約16kmにもおよぶ。
要所には出入りを監視する「見附」と呼ばれる枡形門がいくつも設置され、「江戸三十六見附」と総称された。
こうした江戸城の外堀には、かつて要所に門・櫓が置かれ、見張番所として通行人を監視した。これが「見附」であり、
江戸城の軍事施設であった。そのうち主な門を「三十六見附」と呼んだ。ただし三十六という数が、門の数でなく、「多くの」
という意味である。
江戸城は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、紅葉山などの区画に分かれ、多くの建物で
構成される。本丸は将軍の居城で、西の丸は大御所や将軍世子の居城となった。二の丸は
将軍の別邸、紅葉山には歴代将軍の廟や書物蔵があった。本丸と西の丸は、ほぼ同じ構造
で表と中奥と大奥とで構成される。表には、儀式を行う大広間や諸大名の控え席のある部分
と、諸役人が執務する役所が置かれた。中奥は、たんに「奥」ともいい、将軍が生活する
場所である。ここにも数々の部屋があり、将軍の側には、側衆や小姓・小納戸など多くの
役人が仕えていた。大奥は、将軍の正室である御台所(御台様)や側室の住居で、彼女らに
仕える女中たちが大勢働いていた。大奥の裏手には天守があったが、明暦の大火(1657年)
で焼失したあとは再建されず、天守台のみがあった。
幕府は、明暦の大火1657(明暦3)で焼失した天守閣を再建しなかったため、江戸城にはお城の象徴である天守閣がなかった。
また、幕末には火事が頻繁に起こり、江戸城は何度も焼失した。将軍が住むがないと困るので、すぐに再建されたが、
文久3年(1863)の火事のあと、西の丸と二の丸は再建されたが、本丸はついに再建されなかった。
つまり、旧幕府軍が新政府に引き渡した江戸城にあった建物は、西の丸だったのである。現在、西の丸の地に皇居が
あり、江戸城本丸の地には何も建物がなく、皇居東御苑となって開放されているのはそのためである。
江戸城年表
1590(天正18)徳川家康、江戸城に入る
1592(文禄元)江戸城を修築し、西の丸を創建する。
1603(慶長8)家康、征夷大将軍となり幕府を開く
1605(慶長10)家康、将軍を辞し、秀忠が二代将軍となる。
1607(慶長12)江戸城を修復し、天守台・大手門を築く
1616(元和2)家康没(75歳)
1623(元和9)秀忠、将軍辞し、家光が三代将軍となる
1624(寛永元)西の丸を改造し、秀忠の隠居所とする。清水門をつくる
1628(寛永5)地震により、江戸城の石垣破損
1630(寛永7)西の丸庭園を築造する。地震により、西の丸諸門の石垣塀など損壊
1632(寛永9)秀忠没(54歳)
1634(寛永11)火災により西の丸全焼
1635(寛永12)二の丸を広げ、三の丸の邸宅を外に移す
1636(寛永13)江戸城大修築
1637(寛永14)天守台下の東照社を二の丸へ遷す
1639(寛永16)江戸城外郭諸門を営造し二の丸に射的場、紅葉山文庫をつくる。火災により本丸全焼。
将軍家光、二の丸仮殿へ移る。本丸再造営。
1640(寛永17)二の丸炭庫より火災。
1641(寛永18)二の丸殿舎、東照社を修造する。
1643(寛永20)家綱、二の丸へ移る。
1644(正保元)二の丸東照社を造営する。
1645(正保2)本丸と二の丸間に番所を設ける。三の丸に新殿をつくり、完成後、綱吉移る。
1647(正保4)江戸大地震。城壁など破損。
1649(慶安2)江戸大地震。城壁など破損。
1650(慶安3)家綱、西の丸へ入る。
1651(慶安4)家光没(48歳)。家綱、四代将軍となる。綱吉の居館を竹橋につくる。造営後、綱吉移る。
1653(承応2)二の丸東照社と紅葉山東照社を合社する。
1657(明暦3)明暦の大火により、本丸・二の丸全焼。
1658(万治元)本丸を造営(翌年完成)。ただし、天守は再建されず。
1668(寛文8)火災により虎ノ門・市ヶ谷門焼失。
1680(延宝8)家綱没(40歳)、弟綱吉、五代将軍となる。綱吉の生母桂昌院のために三の丸普請。
1683(天保3)和田倉門内に厩をつくる。
1688(元禄元)綱吉の側室お伝の方のために、五の丸を造営する。
1697(元禄10)北の丸を造営する。
1703(元禄16)江戸大地震。江戸城石垣・櫓などが崩れる。
1704(宝永元)家宣、西の丸へ入る。
1709(宝永6)綱吉没(64歳)家宣、六代将軍となる。二の丸・三の丸を修理し、前将軍綱吉の正室・側室の居館とする。
1710(宝永7)芝口門・芝口橋を建造する。紅葉山文庫を改造し、東文庫とする。
1711(正徳元)紅葉山文庫を増健し、西文庫とする。
1712(正徳2)江戸城内に文庫を新造し、新文庫とする。本丸を修理し、新たに中門を建造する。
家宣没(51歳)。家継、七代将軍となる。
1716(享保元)家継没(8歳)。吉宗、八代将軍となる。二の丸張番所を廃止し四却門・休息所を廃止する。
1718(享保3)山里庭園を造営する。
1719(享保4)大奥新殿を造営する。
1724(享保9)江戸の火災により、芝口門が焼失。以後、芝口門を廃止する・
1725(享保10)家重、西の丸へ入る・
1727(享保12)休息所を造営し、吉宗ここへ入る。
1730(享保15)吉宗の次男徳川宗武の邸宅を田安門内に造営する。(翌年、宗武移る)
1736(元文元)西の丸に庭園を造営する。
1740(元文5)吉宗の四男徳川宗尹の邸宅を一橋門内に造営する(翌年、宗尹移る)。
1745(延亨2)吉宗将軍を辞し、西の丸へ移り、家重が九代将軍となる。
1747(延亨4)火災により二の丸、畳蔵全焼。本丸庭園内に亨館を造営する。
1751(宝暦元)吉宗没(68歳)。
1752(宝暦2)家重の世子家治、西の丸へ移る。
1758(宝暦8)家重の次男徳川重好の邸宅を清水門内に造営する(翌年重好移る)。
1759(宝暦9)延亨4年に焼失した二の丸を造営する。
1760(宝暦10)家重将軍を辞し、二の丸へ移り、家治が10代将軍となる。
1761(宝暦11)家重没(51歳)
1769(明和6)家治の子、家基、西の丸へ入る。
1779(安永8)家基没(18歳)
1781(天明元)徳川(一橋)家斉、西の丸へ入る。
1786(天明6)家治没(50歳)、家斉11代将軍となる。
1787(天明7)二の丸、大奥を増築する。
1796(寛政8)西の丸総普請。
1797(寛政9)家慶、西の丸へ入る。
1829(文政12)雉子橋門外に厩、役宅を造営する。
1833(天保4)二の丸に新殿を造営する。
1834(天保5)二の丸総普請。
1836(天保7)将軍代替わりの準備として西の丸・大奥などを普請・増築。
1837(天保8)家斉、将軍を辞し、西の丸へ移る。家慶一二代将軍となる。
1839(天保9)火災により西の丸全焼。家斉、本丸へ移る。同年、西の丸再建。三の丸製薬所を二の丸へ移す。
1841(天保12)家斉没(69歳)。徳川家慶、西の丸へ入る。
1844(弘化元)火災により本丸全焼。家慶、西の丸へ移る。同年本丸再建。
1852(寛永5)火災により西の丸全焼。家定本丸へ移り、その後、二の丸へ移る。同年、西の丸再建。
1853(寛永6)家慶没(61歳)家定、一三代将軍となる。
1855(安政2)安政の大地震。城内城外破損。死者多数。
1858(安政5)家定没(35歳)。徳川(紀州)家茂、一四代将軍となる。
1859(安政6)火災により本丸全焼。家茂、西の丸へ移る。同年本丸再建。
1862(文久2)三の丸に鉄砲置き場などを造営する。
1863(文久3)火災により、本丸・西の丸・二の丸全焼。家茂、清水邸へ移り、その後田安邸へ移る。
1864(元治元)西の丸再建。天璋院のために二の丸を再建。
1866(慶応2)家茂没(21歳)徳川(水戸→一橋)慶喜、一五代将軍となる。
1867(慶応3)火災により二の丸全焼。天璋院は三の丸へ移り、その後、王政復古の大号令により幕府が廃される。
1868(慶応4)江戸城開城。
土産
雷おこし 東京ばな奈 菊華饅頭
桔梗門→浅草寺 |
浅草寺→羽田空港 |