西国街道ぶらり旅 四辻〜嘉川 10/01/23(土) 山口県山口市
行程 約8km
JR四辻駅→周防鋳銭司跡→春日神社→謎の建石(陶立石一里塚跡)→浄土真宗 円覚寺→陶市→艫綱(ともづな)の森→
臨済宗 正護寺 昼食 スタンプ押印→小郡一里塚跡→妙湛寺→小郡お茶屋(脇本陣)→山口道と分岐点の道標
→三原屋本陣→荒神峠一里塚跡→嘉川市→JR嘉川駅
1月23日(土) 「資金管理団体陸山会」めぐる政治資金規正法違反事件で小沢一郎・民主党幹事長 事情聴取。
大相撲初場所で横綱朝青龍 25度目優勝、優勝回数歴代3位。
JR四辻駅 10時30分 集合 説明聞きます |
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一つ橋の地蔵さん 顕考院道 刻まれている。 |
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陶ケ岳 火ノ山(標高304m) | |
周防鋳銭司(すおうすせんじ)跡 高橋川にかかる橋を渡ると、道の両側に四辻の家並みが続く。 家並みの途切れた辺りから北に向かうと国指定史跡の周防鋳銭司跡がある。 平安時代の天長4年(827)に周防鋳銭司が設置されてから約150年間鋳銭司 で貨幣を鋳造してきた。当初は陶の正護寺前に置かれていたが、承和14年(847) この地に移転している。奈良時代に中国から貨幣制度を取り入れ、近江、河内、 山城、長門、周防などに鋳銭司が設置河内、山城、河内、山城、9世紀中頃から は周防鋳銭司のみとなった。しかし、天慶3年(940)藤原純友が周防に乱入し、 鋳銭司は襲撃を受けた。やがて復活したが、寛和年間(985〜89)以後まもな く廃絶した。 |
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謎の建石 陶立石一里塚跡 春日大社に延びる参道の鳥居の横に、平らな岩が建っている。ここに古くから あるらしく、「行程記」にも「平岩と云う。古来よりこの所にあり、古老の伝に、昔、 仟佰(せんぱく)の傍示に位置しと伝えり」と紹介している。 高さ1.5mの石であるが、何のために建てられたかは不明である。 また、この付近に一里塚があった。 小瀬から21里、赤間関から15里の一里塚であった。ここの地名を立石という。 |
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春日神社 旧山陽道から北に真直ぐ、国道を渡って長い参道が延びている。 春日神社は和銅元年(708)に藤原不比等が創建したとも、延歴4年(785) に奈良の春日神社から遷座したと伝えられる古社で、鋳銭司の総社であった。 祭神は軍神として昔から武士の信仰を集めていた。足利尊氏が西国に逃れ、 再挙を図った時、弟の直義を使いとして太刀一振りを納め武運の回復を祈願した といわれている。なお、拝殿には「鋳銭司古図」の絵馬がある。 |
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浄土真宗 円覚寺 旧山陽道は円覚寺に沿ってくるりと廻り西に延びる。 円覚寺はかっては真言宗の霊場で大内氏の祈願所であったが、 大内氏の没落後廃退した。 その後大内家臣の八木主膳が再興し真宗の道場とした。 |
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陶市 陶の名は、古代この地で須恵器を製造したことによるといわれ、北方の山麓には、 陶窯遺跡がある。この地に良質の陶土があり、近代にいたるまで続けられた。 中世、大内氏の支流右田弘賢はこの地を領し、居館を定めて陶氏を称した。 陶市には宿場はなかったが、天下送りの継ぎ場が置かれ、宿馬10疋が置かれたと 記録にある。上市と下市にはそれぞれ市恵比寿が祀られている。 上市には朱塗りの社殿に恵比寿様が祀られている。 下市の恵比寿は、西に下って橋本橋の西側に祀られている。 |
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艫綱(ともづな)の森 陶市のはずれの高台に石碑や石祠など並んであり、「艫綱の森」と呼ばれている。 百済の皇子琳聖太子が推古天皇19年(611)にこの地に上陸されたと伝えられて おり、寄宮神社として祀られてきた。以前は200m南の国道の傍らにあったが、 国道工事のため、この地に移設された。 太子は陶の土がやきものに適しているのに気付き村人に土器の製法を教えられた といわれている。 |
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街道から北へ600m行きます。 臨済宗 正護寺 延文年間(1356−61)に陶氏二代目の陶弘政が建立した。居館もこの寺の前面 にひろがっていたらしく、寺は城内の祈願所として創建された。 永禄12年(1569)に大内輝弘の兵火により焼失、江戸時代に館跡に再建された。 境内には陶弘政の宝篋(ほうきょう)印塔や陶晴賢の分骨を収めた墓がある。 また、寺院内に平安初期の木造薬師如来像あります。 昼食 全体写真撮り、スタンプ押して貰います |
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200m歩き、右側に日吉神社あります。 藁ぶきの屋根ありました。 2号線 バス停「西陶」通り過ぎ 左側には名田島の開作した穀倉地帯あります。 |
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小郡一里塚跡 小瀬川より22里 赤間関より14里 山陽新幹線の高架下りが陶と小郡の境である。 椹野(ふしの)川に架かる東津橋の手前に一里塚があった。 |
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東津橋の東詰めの街道から北へ600mほど寄り道します。 妙湛寺 応永の乱で大内義弘を破った足利義満は、大内氏から和泉、紀伊、石見、豊前を 取り上げ、末弟の弘茂に周防・長門の守護を安堵した。次弟の盛見(もりはる)はこの 相続に反対で、兄弟の争いとなり、盛見が長門・周防をてにしていた弘茂を打ち破った。 長兄の義弘の嫡男持世(ももよ)はまだ幼かったので、自らが大内氏を相続した。 盛見にも豊久丸という子があったが、後年豊久丸が成人し、兄の遺児持世と 跡を争う心配があり、我が子豊久丸を蛍狩りに誘い鰐石川(椹野川)で船から 突き落とし水死させてしまった。 盛見はその屍が止まったところに一寺(妙湛寺)を建て豊久丸を葬った。 |
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街道にもどり 東津橋 小郡宿に入ります。 |
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東津の街並み | |
JR山口線踏切渡り街道を歩きます 小郡お茶屋(脇本陣) 小郡の本陣は津市に三原屋本陣があったが、小郡を通る大名は東津町の脇本陣 のお茶屋を多く利用したという。お茶屋はもともと藩主の小邸であったが、 藩主はあまり利用しなかった。 年代を重ねたクスノキが当時をものがたっている。 北隅に勘場(代官所)が置かれていた。 |
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山口道と分岐点の道標 西に行くと十字路となる。古くは三叉路で山陽道と山口道との分岐点であった。 右角に道標がある。 |
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三原屋本陣 旧山陽道と国道9号線の交差点の西南の角に「三原屋本陣」があった。 文久3年(1863)この本陣に滞在していた幕府の詰問使が襲われた。 下関での外国船砲撃の件で、幕府は軍艦朝陽丸を下関に急航し、 奇兵隊を詰問したが、奇兵隊は朝陽丸を奪ってしまった。 詰問使は小郡に上陸し三原屋で藩主に面会を求めて待機していた。 これを聞きつけた過激隊士が三原屋を襲い、従者3名を殺害した。 詰問使らは逃れて海に去ったが、中の関沖合の船中で再度襲われ殺害された。 後の長州征伐の要因ともなった。(三原屋事件) |
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国道9号線の手前に 粟島神社 国道9号線 地下道くぐり 県道335号江崎陶線沿いを歩きます。 |
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小郡柏崎の交差点わたり JR山陽本線左に見て500m歩きます。 踏切は複線の山陽本線 単線の宇部線 越えます。 左に見える山は雨乞山(160m) |
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荒神峠一里塚跡 上嘉川でゆるい登りの荒神峠を行く。 左側の林の中にもと荒神の小社があったという。 大正14年に宇部線を開設する際掘り下げた上に橋を かけた。この辺りに一里塚があったという。目印はありません。 |
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嘉川市 嘉川は古代山陽道の駅家で「賀宝(かがほ)駅」とされ、東は八千(鋳銭司)に西は 阿潭(宇部市阿東)とつながっていた。 江戸時代は半宿で宿馬10匹、家数70余軒あったと記録する。 今川了俊も応安4年(1371)に九州下向の途次、嘉川に宿泊している。 「道ゆきぶり」に「今夜は香河とかや申所にとどまりぬ。竹の一村侍る。 みこしに島のちかちか見えたるを、このさと人にとへば梅が崎といふ」とある。 |
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恵比須神社 | |
地蔵さん | |
上り 16時55分発 JR嘉川駅乗車 |