西国街道ぶらり旅 富海(とのみ)〜防府 09/5/23(土) 山口県防府市

3月22日(日)は降水確率60%以上で中止となり、今日の実施となりました。

行程:約8km
JR富海(とのみ)駅→富海一里塚跡→橘坂(たちばなさか)→手掛岩(てかけいわ)→
大内輝弘(てるひら)の墓→浮野(うけの)峠→駕籠立場(かごたてば)跡→阿弥陀寺の境界石→
徳地屋跡・大名休憩所→浮野宿(半宿)→今宿一里塚跡→周防国衙(こくが)跡→多々良(たたら)大仏殿→
佐波神社→周防国分寺→防府天満宮→JR防府駅

23日:新型インフルエンザの感染者は、神戸市で初めて確認されてから一週間。7都府県の338人に増えた。
    韓国ノムヒョン前大統領が自殺。
24日:大相撲夏場所 大関の白馬富士(はるまふじ)初優勝。優勝決定戦で横綱白鳳破る。

10時15分 JR富海駅集合

駅舎の中
ツバメが餌付け 糞がいっぱい

左のこんもりした山は茶臼山

峠越え、街道沿いの歴史解説を楽しみます。

富海(とのみ)一里塚跡
富海駅前墓地の西の端に一里塚あった、目印はありません。
赤間関へ20里、小瀬から16里の塚である。
橘坂(たちばなさか)
踏切を渡り 左手の坂道を登る。橘坂と呼ばれ、
昭和16年頃までは茶屋が残っていて
餅や饅頭を売っていたという。

防府市観光協会の案内板「旧山陽道入口 橘坂」

交通量多い 注意の笛が鳴ります。

眼下に見える瀬戸内海の 絶景

富海海水浴場

手懸岩
坂を登ると左に大石がある。手掛岩(てかけいわ)といい、
「この岩肌を撫でて通ると足が軽くなる」との言い伝えがある。

峠道からJR山陽本線

茶臼山古戦場
大内輝弘(てるひろ)の墓

毛利氏が大内氏を破り、防長支配が始まった後、
大内家再興を願って大内輝弘は、大友宗麟(そうりん)の
支援のもと豊後から山口に攻め込んだ。

九州で戦っていた毛利軍は直ちに反転し大内軍に迫った。
山口を追われた大内輝弘は浮野峠を越えて富海まで逃げたが、
前方は毛利の大軍に阻まれいた。
また引き返して茶臼山に拠ったが、力尽きて家臣とともに
自害して果てた。山中、街道の右側に大内輝弘の墓と
伝えられる大内菱を刻む石祠がある。

浮野峠(うけのとうげ)
砂防ダムを越すと浮野峠である。
北側に明治四年の道路改修碑が建つ。
「ここから二十四間の切り通しを拓き、まことの道なく岩の
狭間を分けつつ歩いていた本道百間を四分の一に短縮した」
とある。
わずかに残る石畳の道も落葉と土に埋もれてしまっている。

竹林を歩き下ると、防府バイパスの国道2号線に出る。
峠の急な坂を登る大名が駕籠から下りて休憩した所で
右手に「駕籠立場跡」の案内板がある。

浮野宿 富海と宮市間の半宿(間宿)

阿弥陀寺の境界石

峠を下り浮野宿の入口右側に高さ2.4m花崗岩の
大石柱が立っている。
阿弥陀寺の四至の境界石の一つと伝えられる。
地元の人は北へ3kmにある
阿弥陀寺への道しるべといっている。
徳地屋跡
大名の休憩した徳地屋屋敷跡が残っている。
春日宮常夜灯
浮野宿上下の中心に春日宮の常夜灯が立つ。

今宿一里塚跡
柳川を渡ると今宿に入る。
JA牟礼支所(旧)の前に一里塚があったと伝えられる。
赤間関へ19里、小瀬川から17里の一里塚である。
目印はありません。
12時55分〜13時40分

昼食と全体写真 
記念のスタンプ押して貰いました。

周防国衙(こくが)
国道2号線に合流して約400m西に進むと、右側に
「史跡 周防国衙跡」の石碑が建つ。
右に曲がり進むと広大な周防国衙跡地に出る。
敷地の西側に安政7年(1860)に建立した
「国廰(こくちょう)」の碑が建つ。
大化の改新(645)に国府が置かれて以来、
明治初年まで国庁寺・国庁八幡が置かれていた。

多々良大仏殿
座高の高さ約5mの阿弥陀如来像である。
奈良の都を模して、周防の国衙の立馬場に建立されていた
辻福寺(じょうふくじ)の大仏であった。
明治25年「毛利邸」の場所からこの地に移した。
佐波神社
社伝によると神功皇后三韓遠征祈願のお宮で、五行説の
金の方向に当たる三韓を切ることから「金切宮」と呼ばれていた。
また、国司の諸社参詣を簡便にするため、
国府に近いこの宮に合祀させて「総社」となったいわれている。
なお、明治40年に金切、勝間、日吉、八幡の各宮が合併して
佐波神社と改称された。
周防国分寺 金堂
金堂は平成9年から7年かけて
「平成の大修理」が行われ平成16年11月完成した。
周防国分寺
天平13年(741)聖武天皇の勅願により全国に建立された
国分寺の一つであるが、創建当時の場所にそのまま遺構が
残されているのは全国的でも珍しい。
楼門は文禄5年(1596)毛利輝元によって再建され、
明和4年(1767)毛利重就(しげなり)により修営された。
鉤道
注意の道路標識あります
防府天満宮
菅原道真の死後間もなく、国司の土師信貞(はじのぶさだ)
により創建され、京都北野、福岡太宰府とともに三大天満宮
の一つとされている。社伝によると延喜4年(904)の創建で、
わが国最古の天満宮といわれている。
街道入口の石の大鳥居は初代萩藩毛利秀就(ひでなり)の寄進で、
寛永6年(1629)の年号を有している。

14時40分 防府天満宮で解散
15時27分乗車 JR防府駅 糸崎行き

防府土産 酒垂(さかたり)岩おこし 天満屋で買いました

菅原道真公が太宰府に流転の途中、防府の勝間ケ浦に上陸され
翁(おきな)の差し出せし干飯(ほしいい)を召し上がりながら
酒垂山(現在の天神山)のこんこんと湧き出る水で渇きをいやし
「身はたとえ筑紫の果てに埋まるとも魂ぱくは必ず
この地に帰り来らん」名残惜しんで出発されました。
      
萩往還、天神通りでは
小川で小網で魚・えび?捕りしている少女いた。

大道←宮市宿→富海宿

防府「歴史浪漫紀行」

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