兵庫津宿を訪ねる    2011/9/7(水)  兵庫県神戸市中央区〜兵庫区

JR神戸駅→湊川神社→兵庫県里程元標→猿田彦神社→湊八幡神社→七宮神社→岡方惣会所跡の碑→札場の辻跡
→兵庫宿本陣跡→能福寺→清盛塚→キャナルプロムナード→兵庫城跡→築島寺(来迎寺)→柳原えびす神社→JR兵庫駅

青春18きっぷ 利用、訪ね歩きました。電車は 照明消しての節電運行です。 

台風12号が過ぎ 爽やかな天気でした。

豊臣期の兵庫津 略図

防衛の手段として、遠見を遮断とする、直角に折れ曲る宿場町らしい街道の形がはっきりと残っている。

浜本陣
諸大名の国産品を一手販売したり諸藩の用達を命じられていた問屋業社のこと。
諸大名は参勤交代のときこれら問屋商人の屋敷に宿泊したので本陣と呼ばれた。
浜本陣の数は時代によって多少の増減がある 9軒が数えられる。

神戸の戦災  3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。
道路拡幅で本陣跡の面影ありませんでした。町名など名残りありました。


兵庫津繁栄の時代

わずか半年間だったけれど、神戸は日本の首都になったことがある。

平安時代の末期の福原京遷都(1180年)だ。
このとき都が置かれたのが、神戸市兵庫区辺り。
JR兵庫駅から中央卸売市場にかけての一帯は、海外貿易に目を
向けた平清盛大改修した古代からの港「大輪田泊(おおわだとまり)」
があったと考えられている場所だ。ゆかりの史跡訪ねた。

2012年NHK大河ドラマ 平清盛が取り上げられる。
清盛の夢の跡・・日本を交易国家に――。夢は港の大修築から始まった。

900年前の平安末期
天皇を退位した上皇や法皇が大きな権力を誇り
貴族の長である藤原摂関家を迎えて
思いのままの政治(院政)を行っていた
身分の低い武士は、彼れに仕える「番犬」に過ぎず
乱れた世の治安を守るため、命がけで戦っていた

世の中のさまざまな矛盾と向き合う中で
武士たちは、自らがこの国の頂点に立つことを夢見るようになる

そしてついに、武士として初めて日本の覇者となり
この国の行く先を示した男があらわれた 平清盛

登場人物
平清盛 松山ケンイチ
平忠盛 中井貴一
源義経 玉木宏
常磐御前 武井咲
明子  加藤あい
時子  深田恭子
白河法皇 伊藤四朗
祇園女御 松田聖子
舞子  吹石一恵

神戸市中央区

9時30分 JR神戸駅

0キロポスト
東海道本線の終点 山陽本線の始点
 中央区多聞通

湊川神社  社殿

旅の無事祈り、お参りしました

楠木正成を祀った神社である。門を入って右に正成の墓があります。
中央区元町

湊川神社の正門東側にあった
兵庫縣里程元標
約300m先にある元町がわ“きらら広場”の敷地内へ

平成16年3月に移された
中央区相生町

新開地 西国街道ビル前に

西国街道の道標があります
 兵庫区湊町

三笠屋
創業文政2年(1819)。7代続く老舗の蒲鉾

兵庫区佐比江町

猿田彦神社
平清盛が福原遷都で、兵庫築港に際し七日七夜参籠し、
祈願を込めたるところ、難事業に成功したので、後年、
この佐比江の地に奉遷したと伝えられています。

兵庫区湊町
迷子のしるべ石(湊八幡神社)
兵庫津東の出入口で、西国街道に面して湊口惣門があり、
番所が置かれ、高札場があった。
旅人の目につきやすく、付近は人の往来が激しいので、
辻に「迷子のしるべ石」が建てられていた。
こどもが迷子になった家ではここに来て、
こどもの特徴・年齢・住所・氏名を紙に書いて、
この石に張りつけておく。また、こどもを発見した人は、
ここへ連れてきて、尋ねる家の人に会えば、すぐ引き渡し、
会えなければ、
石に住所・氏名などを書いた紙を張りつけておく。

兵庫区七宮町

七宮神社
(しちのみやじんじゃ)
平清盛が兵庫の築島工事の、無事終了の感謝のため社殿を
建立したと言われています

兵庫区本町
樽屋五兵衛 いかなごくぎ煮

江戸時代この一帯は人口2万人ほどに及び、港を中心に
国内外の交易そして宿場町として大いに栄え、
商業活動も盛んで神戸の前身でありました。
本町札場の辻跡 #64 神戸の港〜神戸はなぜ1300年も良港なのか?〜
放送日:2017年2月18日(土)ブラタモリ、神戸へ!今年、開港150年目を
迎えた兵庫県の神戸港は日本を代表する港。その歴史は古く、なんと
1300年前の奈良時代から記録が残っているほど。そして現在は、
「Port of KOBE」の名で、世界中の船乗りたちから素晴らしい港と絶賛
されています。 でもどうして神戸の港は、そんなに「良港」なんでしょうか?
タモリさんが、みなと神戸の秘密に迫ります。まずは船に乗りこんで、海の
上から神戸港のよさを実感した海の男・タモリさん。遠くに世界最長のつり
橋・明石海峡大橋をのぞみ、目の前に六甲の急な山々がそびえる神戸港
ならではの風景に感激!しかし実はその風景こそが、「良港」の秘密をとく
カギだった・・・っていったいどういうこと?続いて港の秘密を解くために向か
ったのは、なぜか少し離れた山の上。ケーブルカーでたどりついた先で、
タモリさんが発見した意外な事実とは?世界中の船乗りたちに愛されている
のが、船に欠かせない神戸の水。日本で一番古いというコンクリートダムで
不思議なブルーの水を味わったタモリさん。

神明町
神明町に来ると、西側に井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣
があり、本陣に南接して脇本陣の明石屋宗兵衛、小路を隔てて西側の
小広町に豊島屋宗兵衛、同町の東側に桝屋長兵衛(または長左衛門)、
その南隣に三木屋作右衛門の4軒があった。
本陣や脇本陣には大名とそのお供が宿泊した。
そのほかにも旅宿はたくさんあって、
参勤交代のとき湊川が洪水で越せない場合など旅客が立てこむと、
これらの旅宿のほかに、
―時下宿として町家に泊めることもあったという。
兵庫区西宮内町
神明神社
御祭神は伊勢神宮から勧請し兵庫大仏で有名な能福寺の守護神
として鎮座していた。
兵庫津の七社の一でありかなり古くから此の地に鎮座していた。

北逆瀬川町
能福寺と兵庫大仏
能福寺は平清盛所縁の寺としても知られ、1180年(治承4年)、
福原京遷都にともない平清盛が能福寺で剃髪入道(浄海)し、
平家一門の祈願寺に定められ大伽藍が建設され八棟寺と称されました。
能福寺境内には平相国廟(平清盛廟)・平清盛公墓処があり、
平清盛が京都で荼毘にふされたとき、この寺の住職円実法眼が
清盛の遺骨を持ち帰り寺領内に葬ったと伝えられています。
兵庫大仏は、兵庫港開港以来急速に増えたキリスト教信者に
危機感を抱いた仏教徒らが、キリスト教に対抗して仏教徒のシンボル
となる大仏を建立したといわれています。

西国街道から離れ寄道しました。

切戸町
清盛塚
清盛の遺骨を持ち帰った円実法眼(えんじつほうげん)が埋葬した
清盛の墓と信じられていた十三重の塔でしたが弘安九年(1286)
に建てられた供養塔であることが判明し、
大正十二年の市電道路拡幅工事で現在地に
移転しました。

切戸町
兵庫運河・新川運河・キャナルプロムナード

神戸港が国際港として発展する礎となった場所です。
大輪田橋の北側、新川運河沿いの約300mの岸壁がきれいな散歩道
として整備されています。
ここはキャロルプロムナードと名付けられ、市民の散歩コースや憩いの場
になっています。

切戸町
兵庫城と初代兵庫県庁
伊藤俊輔(後の伊藤博文・初代総理大臣)が
初代兵庫県知事として赴任しました。

島上町
築島寺(来迎寺)
築島寺とはかつての名称で、現在は来迎寺(らいこうじ)と呼ばれている。
この寺には松王(まつおう)入海の碑と墓がある。平清盛が日宋貿易のために
経ヶ島を築造する際、海神の怒りを鎮めるために人身御供(ひとみごくう)
となったのが、清盛の従者の松王である。寺は清盛が松王のために建てたと
言われている。もともとは三川口にあった寺であったとされ湊川の合戦や
第二次世界大戦で焼失した。現在はもとの位置とは違う場所に再建され
港湾施設に囲まれて静かに時を刻んでいる。

西国街道へ戻ります 「札場の辻跡」から歩きました。
西柳原町
 柳原蛭子神社
柳原蛭子神社の北側には、江戸時代には西国街道から兵庫津への
西の口となる柳原惣門(西惣門)があり、
門前は札場(高札場)になっており番所が置かれていました。

蛭子神社(ひるこじんじゃ)は柳原えびす神社とも呼ばれ、兵庫津の道、
西国街道の柳原の中心にあり、創建年代は不明ですが
1692年(元禄5年)兵庫津の「寺社改帳」には蛭子神社の
記載があることから元禄以前から祀られていたことがわかります。
 
12時15分

JR兵庫駅

播磨・摂津の国境〜兵庫津宿〜西宮宿

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