特別史跡 安土城跡を訪ねる 
           滋賀県近江八幡市安土町 令和5年4月16日(日)
前日4月15日(土)は雨天
中山道を江戸へ下る旅 第4回 (守山~近江八幡)15km 歩いた。
                








セミナリヨの由来
かつてセミナリヨ(カトリック小神学校)のあったこの土地が、織田信長より教会建設用地として下附されたのは、
1580年(天正8年)5月21日のことであった。これによって、イエス会のオルガンチーノ神父は直ちに高山右近を
はじめ近在の信者たちの熱烈な援助を受けて、ここに三階建の堂々たる僧院を完成したが、その後間もなく
この建物を用いてセミナリヨが開校された、一階には茶室の付いて座敷があり、二階は神父の居室、三階は教室と生徒
の寮として使用された。授業科目には、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などがあり、
後に日本26聖人の一人となったパウロ三木をはじめ、諸国から集まった20数名の少年たちが寄宿して勉学に励んでいた。
信長の特別な許可により、安土城と同じ水色の瓦で屋根を葺いたこの豪壮なセミナリヨには、連日多数の貴人が訪れたが、
信長自身もしばしばここに立ち寄り、ときに少年の演奏するオルガンに聞きとれていたと伝えられる。かくして、
安土はこのセミナリオにより、日本におけるキリスト教の一大中心地となるかにみえた。しかし、1882年信長が本能寺の変に
死するや事態は一変し、セミナリオの壮麗な建物も明智勢の侵略により廃墟に化した。
やむなくセミナリオは京都へ、さらに高槻、大阪へと移り、1587年秀吉の禁教令に際しては肥前国(長崎県)有馬の
セミナリオの合併されたが、それも遂には1614年徳川の大追放令のもとで廃校となり、その苦難の歴史を閉じることになった。

『特別史跡安土城跡整備基本計画』

「幻の安土城」復元プロジェクト

安土城「令和の大調査」 初年度の成果は? 城跡の整備は?

豊臣氏、廃城後の安土城破壊か 天主台東面の石垣、令和の大調査
2024/1/12(金)


織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市、東近江市)で「令和の大調査」をしている滋賀県は12日、
天主台東面の石垣が意図的に崩された「破城」だった可能性があると発表した。
本能寺の変後の1585年に豊臣秀吉のおい秀次は約5キロ離れた八幡山城を築き、安土城は廃城となっていた。

県文化財保護課の担当者は「織田氏の天下が終わり豊臣氏の時代に移ると、織田氏の象徴(である安土城)があると困るので、
わざと壊したということも考えられる」と話している。
令和の大調査は2023年度から始まった20年間に及ぶ計画。今回はこれまで手つかずだった天主台の北東側を発掘している。

天正10年(1582年)6月には、本能寺の変、明智光秀の安土城入城、光秀が死亡する山崎合戦があった。その後に焼失した天主は、
礎石が傾いた状況などから天主台北側に倒れたと考えられている。

今回の調査区域からも焼けた礎石が見つかり、建物跡があったと推定されている。
焼けた瓦などの遺物は少なく、城が焼け落ちた後、時期は不明だが片付けられたとみられる。

天主台東面の石垣は大きな石が1〜3個ほどしか残っておらず、その手前には、石垣内部に詰める大量のこぶし大の石が散乱していた。
残った石垣の高さがそろっていることから、自然に崩壊したのではなく、城の機能が失われたことを視覚的に示すために意図的に
破壊したと推測している。

八幡山城の築城に際して城下の住民や部材が安土城から八幡山城へ移された可能性も指摘されている。


特別史跡 安土城跡
織田信長が天下統一を目前にしてその居城として築いた城である。天正4年(1576)
着工、天正9年ごろ竣工したと認められる。天正10年(1582)6月本能寺の変の直後に
天主閣等も罹災し、遂に廃城となった。琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城
域とし、各所に石垣を築き、中央に七層の大天主閣をはじめ各殿舎等を建て雄大なかつ壮観
を極めた。また山ろく平地には城下町を形成するなど近世城郭の先駆であった。
現在、城の縄張りを知ることのできる石垣石段・礎石等のほか罹災をまぬがれた織田氏の
菩提寺である捴見寺(そうけんじ)の三重塔・楼門および金剛二力士像(いずれも重要文化財)が残存している。


安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)
に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最
高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく
当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完
成して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺され
ると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失
してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で
信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピール
します。しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉
を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長
が城内に建てた摠見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくこ
とになります。
安土城跡は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江
市(旧能登川町)にまたがる約96万㎡が特別史跡に指定されました。
昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年~
50年(1960~1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長
400回忌にあわせて城跡南面の平面整備がおこなわれています。そして、平成元年度(1989)
から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡
安土城跡調査整備事業』が20年計画で行われています。

安土城跡
織田信長公が天下統一を目標に天正四年(1576)1月17日重臣である丹羽長秀を総奉行に据え
標高199mの安土山に築城させた平山城。岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。
現在は四方とも干拓により陸地となっているが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ、南方のみが
開けた地形であった。
そのわずか3年後天正7年5月、我が国で初めて天守閣(天主閣)をもつ安土城が一応の完成をみせた。
ところが、天主完成から3年目の天正10年(1582)6月2日未明、中国毛利へ出陣途中の明智道秀の謀反により
信長公は京都・本能寺で自刃(49歳)。
混乱の中、6月15日に天主など消失、一夜のうちに落城した。
原因は織田信雄が誤って焼き払ったという説や敗走する明智光秀による放火と言う説などが有名。
城跡…大正15年10月20日文部省(当時)指定の史跡となる。
昭和27年3月29日文部省文化財保護委員会(当時)が特別史跡に指定。

大手道跡の石仏
この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、
石仏や墓石等も含まれていました。出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の
状態で保存しています。趣旨をご理解の上、見学してください。
滋賀県教育委員会

仏足石(室町時代中期)
この仏足石は大手道石段などに見られる石仏と同様、築城当時単なる石材として集められ、石垣に使われて居た様で、昭和の初期、
登山道整備工事の時この附近の崩れた石垣の中から発見されました。仏石は、お釈迦様の足跡を表現したもので、古代インドでは、
仏像に先立ち崇拝の対象とされて居ました。我が国では、奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝級)の物として有名ですが、
此の仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。



黒金門跡(くろがねもんあと)
ここは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。周囲の
石垣をこれまで見てきた石塁や廓の石垣と比べると、使われている石の大きさに
驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金御門付近も天主とともに
火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等
の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長
が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。
高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な廓で構成されるこの
一帯は、標高が180mを越え、安土川では最も高いところにあります。東西180m、
南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲から屹立してい
ます。高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれ
ています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数ヶ所設けられ
ています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口
なのです。
安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを
残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400
年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さ
に驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞ください。
平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている
可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上
には覆い被さるような建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向
かうような感を覚えたのではないでしょうか。





安土城天守台跡
安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失してしまいます。その後は
訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったの
は、昭和15年(1940)のことです。厚い堆積上を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この
時に石垣の崩落を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。
安土城天主は、記録から地上6階・地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかりま
す。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
皆様が立っておられる場所は、地下1階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく2倍半近くあ
りました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時
の天守台を復元したものです。その規模の雄大さを想像してください。



土産:でっち羊羹「安土問答」  万吾樓


1579年(天正7年)5月27日織田信長公の命により安土の浄厳院で日蓮宗と浄土宗の代表となる僧により
厳しい宗論がかわされました。これを「安土問答」といいます。
日蓮宗と浄土宗に因んで二つの異なる素朴な味に作りあげました。


安土城郭資料館

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