八幡山城 登城 滋賀県近江八幡市 2023・9・7(木)
近江八幡観光物産協会
八幡山城の歴史と環境
八幡山城は、滋賀県近江八幡市北方の八幡山(鶴翼山)に所在する城跡で、当時は、後
背から西にかけて津田内湖(昭和46年干拓)、東に西の湖が広がっており、内湖に囲まれ
た環境にありました。
豊臣政権下の天正13年(1585年)には、羽柴秀次に近江43万石が与えられ、こ
の八幡山に八幡山城が築かれました。築城に際しては、山麓に存在していた願成就寺が八
幡山南方にある日杉山の南麓へ移動させられたことが史料に伝えられており、山腹に鎮座
していた日牟札八幡宮の上社も同じく、麓の下社と合祀されたことが伝わっています。
本丸および二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸の城郭施設は標高283mの山頂に位
置し、居館群は標高約130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。
王手道は、居館群最高所に位置する秀次館から麓に下がり、築城時に開削されたと伝えら
れる八幡掘に到ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東
側の尾根と西側の尾根と八幡堀がセットで惣構えを構成していると考えられます。
天正18年(1590)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次が代わって、2万
8千石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595年)に聚楽第と同じく破
却されました。
尚、昭和42年に、山頂本丸部分から山麓にかけて集中豪雨によって土砂崩れが発生
しました。御来訪の皆様に安心して見学していただけるように近江八幡市では、関係各局
と検討を重ね、さらにその検討を重ね、さらにその検討資料となるように平成12年度より確認調査や測量調査
など行っています。
八幡山城の特徴
織田・豊臣政権下で築城されたいわゆる織豊系城郭は、一般的防御空間と居住空間
が一体となっています。それに対して八幡山城は防御空間としての山城(詰城)と居住空間
としての居館群が分離する構造となっており、織田・豊臣政権以前の戦国期城郭に見られ
るような時代を逆行した二元的な分離形態をとっています。これは、八幡山城が築城され
た天正13年(1585年)が、小牧・長久手の戦いの翌年であり、関東には後北条氏がひ
かえていることなどから、東方に対しての臨戦態勢のもとで、防御線として近江国が考え
られていたことによると考えられます。
土産:京都駅で京つけもの大安(だいやす)