西国街道ぶらり旅「高水〜勝間〜周防久保」2008/1/13(土) 山口県周南市熊毛町・山口県下松市

行程  7.0km  49人の旅人達です。
JR高水駅→高寺観音道標→橿原(かしはら)神社→呼坂本陣→松蔭決別の地→西善寺→古市坂(コックリ坂)
熊毛神社(勝間八幡宮)→御所尾原→遠見一里塚跡→三宅親子顕彰碑→郡境の碑→JR周防久保駅

一番の冷え込みです。歩くのに心配したが 日が差して 風もなく 気持ちよく歩きました。

大学入試センター試験 一日目。学生JR乗車多い、広島大学で受験 西条駅で降ります。

西国街道ぶらり旅

JR岩徳線 10時39分「高水駅」着

会費・資料配布し行程の案内説明。

10時55分出発。

JA周南熊毛支所

2階に熊毛図書館 

八代のつる情報 渡来数 7羽。
表示してありました。

高寺観音道標

前回はここで終わりました。

八代の鶴渡来地・呼鶴温泉

ツルと温泉の町 熊毛町

軒下に鶴をデザインした飾りあります

呼坂(よびさか)宿に入ります

橿原(かしはら)神社
弘仁2年(811)紀伊の熊野権現を勧請した。
王子権現といっていたが、

大和橿原宮にちなんで明治6年に橿原神社と社号を改めた。
神武天皇を祀っている。

呼坂本陣跡

 

呼坂宿の街並み
呼坂宿の街並み

中村川を渡ると「吉田松陰・寺嶋忠三郎 決別の地」
碑があります

松蔭決別の地

松下村塾の弟子、呼坂出身の寺島忠三郎はたまたま
郷里に帰っていて、人ごみから密かに別れを惜しんだ。
その後忠三郎から久坂玄瑞にあてた手紙によると
「縄付き、護送役人番人30名という警戒振りの内に
松陰先生は駕籠の中で静かに本を読んでいた。」
忠三郎は声をかけることが出来なかったという。

寺島忠三郎は松下村塾の三弟子の一人に数えられ、
後に蛤御門の変で久坂玄瑞とともに死んだ。
時に22歳の若さであった。

西善寺

呼坂宿の西の端にあり、本願寺派で高い寺格を持つ
寺だといわれる(上座二等甲種特別)。

天正4年(1576)3月の創建。

天明年間(1781〜)から呼坂宿の脇本陣を勤めた。
門徒数は600余戸あったという。

参道入口には高札場があった。

西町から古市に入ります

古市坂(コックリ坂)から呼坂宿を見ました

古市坂(コックリ坂)

西町からすぐの坂道を登ると古市で、呼坂の起源となった
古い集落である。この坂道が古市坂で欽明路峠や中山峠
と共に交通の難所であり、コックリ曲がりと呼ばる距離は
短いが大変な急カーブであったという。
昔は人力車もここでは客を降ろして貰ったと言われる。
どうしても乗ったままで登るときには二人曳きでないと
越せない坂である。

交通の難所 地蔵さんが祀ってあります

水準点あります

熊毛神社

参道約100mの両側に石灯籠が並ぶ。
石の大鳥居は元禄14年(1701)の建立。
祭神は三宅入沼命、玉依姫命。神社の縁起によると、
天平10年(738)、正税帳に当神社の登録があり、
嘉承4年(851)従六位上の神階を賜ったという。
文治2年(1186)東大寺の末寺となる。

周防国の由緒ある古社で、
初めは羯摩(かつま)八幡宮と称していたが、
朝鮮出兵の途中豊臣秀吉により
勝間八幡宮と改められたという。
周防一ノ宮逗子大神勝間八幡宮と称する。
ここで昼食 

会員証「呼坂本陣跡」デザイン 押して貰います

軒下には萩本藩の紋があります

 

会員証です

8回押すと 新しくなります。

JR勝間駅前 歩きます

御所尾原
街道の右側に小山を開拓して御所尾原団地という
住宅地があり、ここは御所ケ原といって、文禄元年(1592)4月、
太閤秀吉が朝鮮出兵の途中、ここに陣所を設けたという
伝承がある。

 

遠見一里塚跡

間の宿であった勝間の集落のはずれで、峠の上からのろしを
上げて大名行列や役人の到着を宿場に知らせていた所で
「遠見」と呼ばれていた。
今は国道の左に僅かに面影の残る街道があり、
遠見一里塚の跡があった。一里塚は大正時代に取り除かれた
という。

小瀬川から8里、赤間関から28里の一里塚である。

塚の前の小林氏宅の屋号は「塚の本」という。

山陽自動車道の高架橋を見上げながら歩きます

JR大河内駅 過ぎます

遠見から垰(たお)、峠市と登る

県道63号 田布施へ行く標識あります

周南市大河内です

郡境の碑

「東 周防之国熊毛郡 西 周防之国都濃郡」とある。

現在の熊毛町と下松市の境である。

下松市に入ります

街道沿いに 恵比寿さん
周防久保駅で解散しました。

向うの山は切山

切山由来の話し聞きました。

この季節は蝋梅(ろうばい)です
14時32分発のディーゼル車2両に乗車

広島駅2階 半年振りに 旧交温めました。

花岡宿・久保市宿←呼坂宿→今市宿

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