備中笠岡 北部 史跡と何でも一番巡り? 2005/3/9(水)
かさおか古代の丘スポーツ公園(史跡・長福寺裏山古墳群)そして、周辺にある 最古の建造物巡り しました。
小田駅 北側には古代山陽道があった地。 井原に後月駅 神辺に安那駅あった。
気温20℃近く 上がる。 桜開花予想 今年は 4月1日 毎水曜日に出る
長福寺裏山古墳群 昭和38年12月25日 市指定史跡
笠岡市走出地区と山口地区の境界をなす標高90mほどの丘陵が、南西から北東へと伸びています。
古墳群はこの尾根線上の約600mの区間に列をなして築かれており、
前方後円墳、造出付の円墳、方墳、円墳で構成されています。
古墳群の発掘調査
1回目・・・・・1961(昭和36)年の発掘調査
竪穴式石槨をはじめ、古墳の中心部分の調査が行われました。副葬品の鉄器や埴輪などの、様々な遺物が出土しています。
2回目・・・・・1997〜2000(平成9〜12)年の発掘調査
古墳群の整備計画に伴って、各古墳の正確な位置と範囲を把握するとともに、
工事区域に遺跡がかかっていないかどうか確認する
ための調査が行われました。
七つ塚古墳群
方墳4基が並んでいる。 |
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双つ塚古墳
備中西部で最大の前方後円墳です。 |
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弥生時代の竪穴住居跡 | |
仙人塚古墳
周濠と周庭をもち、円丘部の周囲には葺石が 鉢巻状にめぐっています。造出部では須恵器が 出土しており、埴輪列も確認されています。 |
辺りある 何でも一番巡り
木山捷平(きやま・しょうへい)の生誕地
1904年、笠岡市生まれ。初めは詩人を志したが、 小説に転じ、33年には太宰治らと「海豹」を創刊。 『うけとり』『尋三の春』などの短編を次々に発表した。 戦前こそ作家として 地味な存在だったが、56年に『耳学問』で人気を呼び、 63年には『大陸の細道』で芸術選奨文部大臣賞を 受賞した。 68年没。 |
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神護寺本堂 笠岡市甲弩 神護寺はもと神宮寺と呼ばれ甲怒(弩)神社の別当寺 として創建されたと考えられるが、その時期は明らかでない。 室町時代にはこの地方の領主小田氏の帰依を得ていて、 現本堂が永禄11年(1568)10月に、小田高清を大檀那として 建立されたことを証する銘文が棟木に墨書されている。 また寺内に、天正3年(1575)8月18日死去した高清の 位牌が祀られている。 戒名は孚臺院殿良玄秀郭居士。 さらに本堂には棟札二枚があり、その一枚は天正15年(1587) 10月に、高清の子元家らが本堂の屋根を瓦葺きにしたこと、 甲弩村の村中を施主として屋根替えを行ったことを記録している。 このほか、右の天正15年の瓦葺きのとき用いたと思える 古瓦四枚が残されており、いずれも天正十四年二月に 宮内(吉備津神社門前町)の瓦大工五郎左衛門が焼いた と思える銘がある。この本堂は市内最古の建造物である。 |
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甲弩(こうの)神社の拝殿 笠岡市甲弩
若建吉備津彦命をまつり、古くは甲弩郷の郷社であったと 伝えられる。明治以前は艮宮などと呼ばれていた。 拝殿は、現在笠岡市内で最古の拝殿建築であると考えら れている。桁行三間、梁間二間、入母屋造、本瓦葺。 向拝は一間で唐破風造。大面取の角柱を用い、斗栱(ときょう) は出三ツ斗、中備えに蛙股を配する。 棟札の中で最古のものは寛永14年(1637)の「奉再興大明殿一宇」 とあるもので、社伝ではこれが現在の拝殿再建時のもの であるとする。 棟札には「大檀那池田出雲守」とあり、当時の領主・池田長常との 関わりがうかがえる。ただし、建築の様式から、 現在の拝殿は17世紀末の建築とする説もある。 また、文化13年(1816)の「艮宮拝殿屋祢替成就」との棟札があって、 このとき拝殿屋根の葺替えを行ったことがわかる。 拝殿関係の棟札は、他に明治28年と大正15年に屋根の葺替えを 行ったときのものがある。 |
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持宝院の梵鐘 笠岡市走出
建長3年(1251)伝々の初銘と永禄12年(1569)の 追銘があって戦乱の世のこの鐘の変遷を物語る。 岡山県下最古の鐘である。 |
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持宝院 笠岡市走出
平安時代の初め天長6年(829)壹演(いちえん) 和尚の開基と伝える。 中世には延福寺を中心に一山十二坊と栄えたが、 南北朝時代正平6年(1351)11月当山で合戦があり、 以後衰微する。室町時代応永24年(1417)には 両界曼荼羅が、また永禄12年(1569)には、 地元領主小田乗清による梵鐘の寄進などがあって、 再興がはかられたが、江戸時代の初めに延福寺 は廃絶した。 その跡へ寛文12年(1611)に現井原市上出部にあった、 持宝院を移転し再興し、以来走出薬師の寺として現在に至る。 |
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持宝院のヤマモモ 市指定 天然記念物
目通り2.7m、樹高11m、推定樹齢300年、 県下でも三指に入るヤマモモの巨樹である。 主幹は南に傾いており、塀の外まで枝を伸ばしている。 毎年多数の花をつけるが、雄株なので実はならない。 幹は地上3mくらいまで腐朽がすすみ、中は空洞になっている ものの、樹勢は衰えない。 このヤマモモの木に合わせるように塀をこしらえてあることから、 塀を作った享保年間(1716年から36年)にはすでにある程度の 大きさに達していたことがわかる。 ヤマモモは、暖帯の向陽地にはえる常緑高木で、 日本では関東南部以南に分布している。 |
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井笠鉄道記念館
明治44年7月1日 井原・笠岡軽便鉄道株式会社創立 (大正4年11月20日 社名を井笠鉄道株式会社と改称) 大正2年11月17日井原⇔笠岡間19.4km 同10年10月25日 北川⇔矢掛間5.8km 同14年2月6日井原⇔高屋間4kmの 鉄道営業を開始 同15年1月1日高屋⇔神辺間7.8kmを 神高鉄道株式会社から買収鉄道総延長距離37kmに及ぶ。 展示の1号機関車は開業当初から 昭和30年10月7日蒸気列車 全廃に至るまで客車・貨車においては開業当初から、 昭和46年3月31日鉄道全線廃止に至るまで、 長期に亘り沿線住民の方々より愛され親しまれ時代の 先駆者として走り続け多大の功績をのこした、 当社最古参の勇姿である。 |
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蒸気列車
最古参の勇姿 |
春日神社石鳥居 笠岡市小平井(おびらい) 笠岡市小平井(おびらい)の春日神社参道に立つこの鳥居は、 室町時代末期の傑作である。 高さ360cm、柱間下部(真々)282cm、柱間上部(真々)242cm、 笠木長430cm。花崗閃緑岩(せんりょくがん)製の明神鳥居で、 二本の太い円柱と笠木・島木・貫・額束はすべて当初からのものである。 全体にこの時代の様式を表しており、室町時代末期の石鳥居 として基準となる作品である。 春日神社の社伝によれば、天文元年(1532)備後国沼隈郡山田村の 渡辺杢之允正(もくのじょうただし)が小平井村の領主となり、 天文4年(1535)春日明神を再建して山林を寄附し、 翌5年には石鳥居一基を奉納したという。 鳥居の額束(がくつか)裏面には確かに「領主渡辺杢之允正天文五丙申年九月」 と刻まれており、このことを裏付けている。 社殿はその後、宝永4年(1707)と明治19年(18886)に再建されたたが、 石鳥居は、第一鳥居として今も残っている。 春日神社は、もと小平井村の村社で、言い伝えによると陶山義高が 笠置山落城の際、奈良春日神社の神鏡と木像と奉携し、 建武2年(1335)3月に社殿を奉建したのがそのはじまりという。 |
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諏訪神社のくすの木 笠岡市園井
市内最大のクスノキである。 根回り6m・目通り4.8m・樹高26mで、推定樹齢400年。 |
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