「東寺」と「西寺跡」「羅城門跡」周辺を歩く 京都府京都市南区・下京区 2014/9/2(火)
ブラタモリ
「京都・東寺?東寺は京都のシンボル!?〜」
初回放送日: 2023年5月13日
今回の舞台は東寺。五重塔で有名な東寺が1200年間"京都のシンボル"であり続ける理由をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす
▽境内は国宝だらけ?立体曼荼羅も堪能!
「ブラタモリ#233」で訪れたのは京都・東寺。旅のお題「東寺は京都のシンボル!?」を探る
▽名プロデューサー・弘法大師空海ゆかりのお宝満載!
▽五重塔の配置に隠された秘密
▽東寺があれば西寺もある!?消えた寺の謎を探る…平安京を左右した"汁田"とは?
▽九条通が微妙にカーブ?その先にあるものとは?
▽東寺を格上げ!謎の高まりの正体を探る
▽都の入り口「羅城門」の数奇な運命
▽ラストはタモリさんが五重塔に謝罪!?
2015/7/7
米国の有名旅行雑誌「Travel+Leisure(トラベル・アンド・レジャー)」は
2015年の世界人気都市ランキングで、京都市が昨年に続いて1位になったと発表した。
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端には、平安京の表玄関である羅城門があり、その両脇には
国家鎮護のための二大官寺である東寺と西寺がありました。現在は弘法大師ゆかりの東寺が当時に近い形
で伽藍を伝え、国宝の五重塔を京のシンボルとして世界文化遺産に登録され、偉容を誇っています。また、
梅小路公園周辺は平清盛の西八条第のあった地域で、六孫王神社には清和源氏の発祥の地として
源経基(つねもと)と伝える墳墓もあります。清盛ゆかりの若一神社を起点に、梅小路公園までをたどります。
行程 5.1km
9:49JR西大路駅→若一神社(にゃくいちじんじゃ)→史跡西寺跡(しせき さいじあと)→羅城門遺址(らじょうもんいせき)→
東寺 教王護国寺(とうじ きょうおうごこくじ)→六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)→
梅小路公園(うめこうじこうえん)・西八条第跡(にしはちじょうていあと)→12:45JR京都駅
土産 つぶあん入り生八ツ橋
安倍首相 インド首相と東寺を訪問
安倍総理大臣は8月31日(日)日本を訪問しているインドのモディ首相と共に、
世界遺産に登録されている京都市の「東寺」を訪れ、
国宝に指定されている「梵天」や「不動明王」などの仏像を視察しました。
「平清盛」紀行
六波羅を本拠地とした平家。清盛は、今の梅小路公園のあたりに、もうひとつの拠点「西八条第(てい)」を造営
しました。ここの主は、清盛の妻・時子。福原に移った清盛は、都で問題がおこるとこの西八条第に入り、
その解決にあたりました。西八条第の鎮守社とされる若一(にゃくいち)神社は、清盛が太政大臣になったことから、
開運出世の神としてあがめられています。西八条第は都での政治拠点となり、清盛の影響力は引退後も衰える
ことはなかったのです。
朱雀大路の幅は約85m、「大路」と呼ばれる幅30〜36mほどの道路、「小路」と呼ばれる幅12mの道路が
規則的に配置され。朱雀大路によって左京・右京に分けられ、東半分が左京で、西半分が右京である。
右京と左京は、それぞれが「条」と呼ばれる九つの東西に細長いブロックに分けられた。また条は四つの「坊」
に分けられ、さらに坊は四つの「保」および十六の「町」へと分けられている。
条・坊・保・町は、それぞれ規則的に番号が割り振られ、条であれば北から一条〜九条、坊であれば朱雀大路側
から外に向かって一坊〜四坊、保・町は朱雀大路に近い北から一保〜四保、あるいは一町〜一六町となっていた。
平安京の地名表示は、平安時代の途中から、現在のような南北路と東西路の交差点を基準とする方法に変わって
いくが、それまでは「左京四条三坊一二町」というように、条・坊・町が用いられていた。
羅城門は平安京守護のシンボル
平安京は政治的な都市として造られた。その性格をうかがわせる施設として、羅城門、東西寺、
東西鴻臚館(こうろかん)東西市、諸司厨町があげられる。羅城門は、朱雀大路の南端にあり、平安京の入り口
であった。門上には兜跋(とばつ)毘沙門天が安置され、平安京を守護するシンボルとなった。その両側には
東寺と西寺の二つの寺院が置かれた。平安京が造られた当時、京内にはこの二つの寺院しかなく平安京の安泰と
国家の平安を願う施設であった。朱雀大路沿いの七条には、東西二つの鴻臚館(こうろかん)が造られた。
外国からの賓客を迎えるための迎賓館として、平安京のほか、大宰府や敦賀にも置かれた施設である。
さらにその両側の市が配された。平安京で暮らす人々の食料や生活物資を賄う施設で、両市で扱われる
商品も異なり、月の前半が東市、後半は西市が開かれることになっていた。
中国式の楼閣であり、正面九間の二階建てで、出入り口が三つあり、門の左右には羅城(築地塀)が取りつけて
あった。古代中国の城郭都市では、都市全体を取り囲む羅城と呼ばれる土塀があったが、平安京の場合は
正面門に限り羅城が設けられた。羅城門の内外には溝があって橋が架かっていたほか、内側には九条大路、
外側に門外大路が通っていた。
現在目にすることができる京都は、豊臣秀吉による都市改造の影響で、創建当時の平安京の名残はほとんどない。
2015/12/7(月)御土居跡歩く
資料は
史跡 御土居と御土居跡を歩く
京都市南区唐橋西平垣町 9:49 JR西大路駅 ここから出発します 線路高架下を潜り歩きます |
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楠社(くすやしろ) 清盛公が太政大臣に任命されたときに手植えした と伝わる御神木です。 昭和になって市電工事の際、この楠を動かそうと すると災難が続き、木は動かさず道路を迂回させ たといわれています。 西大路通は曲っています。 |
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若一神社(にゃくいちじんじゃ) 平清盛の別邸であった西八条殿内に、紀州熊野の若一王子 の御神体を祀ったことが始まりです。その後、清盛が 太政大臣に任命されたことから、開運出世の神社として 信仰されています。 |
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史跡 西寺跡(しせき さいじあと) 平安京建都時に羅城門を挟んで東西に建立された二大官寺 の一つで、823年東寺は空海に、西寺は守敏に下賜されました。 東寺が真言密教の道場として発展したのに対し、 西寺は鎮護国家の官寺となり、その後の度重なる火災で 完全に地上から姿を消してしまいました。 現在は公園の中央に講堂跡が土壇として残り、 付近に元位置をはずれた礎石が残っています。 |
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羅城門遺址(らじょうもんいせき) 平安京の中央を走る朱雀大路の南端に造られた幅35.7m、 奥行約10.2mの二階建ての大門。暴風雨によって二度も倒壊し、 980年を最後に再建されませんでした。羅城門上に安置されて いたとされる兜跋毘沙門天像(国宝) は、現在東寺に所蔵されています。 国道171号歩きます |
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国道1号の交通標識見えます 東寺・教王護国寺(とうじ きょうおうごこくじ) 廃寺になった西寺とは対照的に、度々兵火に遭いながらも その都度再建されたのが東寺。境内の徳川家光によって 再建された五重塔は、現存する木造塔としてはわが国最高 (総高約55m )で、京都のシンボル的な存在です。 境内は史跡指定され、1994年には世界文化遺産に登録され ています。毎月21日の弘法大師の命日には「弘法さん」として 親しまれる市が開かれ、数万人の参詣者で賑わいます。 |
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南大門 | |
国宝・金堂(こんどう) 宋の建築様式を取り入れた、桃山時代の代表的建築物。 796年の東寺創建時に、最初に工事が始められました。 1486年に焼失し、1603年豊臣秀頼の発願により再建された のが現在の建物です。 |
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講堂 | |
五重塔(総高約55m ) |
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北総門の軒瓦には、鎌倉時代(京都で最古)の 瓦が葺かれています。 150mほど西へ |
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六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ) 清和源氏の祖といわれる六孫王源経基の邸宅跡に、 その子満仲が社殿を建立。本殿背 後には、経基の遺骸を納めたとされる神廟があります。 JR山陰本線を潜り歩きます |
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京都市下京区八条坊門町 梅小路公園(うめこうじこうえん) 広々とした「芝生広場」や「河原遊び場」など、市民憩いの場 として親しまれている公園です。花や木々に囲まれた園内では、 四季折々に移りゆく景色を楽しめます。京都水族館 西八条第跡(にしはちじょうていあと)梅小路公園内 平安時代後期、この辺りには平清盛が造営した広大な一門の 邸宅群があったとされています。1181年に清盛が亡くなると、 その2日後に火災が発生し、その後再建された建物も、 平家都落ちの際に自ら火をかけて焼失させたといわれて います。 市バスで京都駅へ |