義経と平家 ゆかりの地を歩く 洛中・洛東2005/8/19(金)

2015/7/7
米国の有名旅行雑誌「Travel+Leisure(トラベル・アンド・レジャー)」は
2015年の世界人気都市ランキングで、京都市が昨年に続いて1位になったと発表した。

05年のNHK大河ドラマ 義経  主な登場人物
源義経(滝沢秀明)平清盛(渡 哲也) 時子(松阪慶子)  源頼朝(中井貴一)
静(石原さとみ) 武蔵坊弁慶(松平建) 後白河法皇(平幹二郎)

行程  青春18きっぷ
JR京都駅→牛若丸・弁慶像→扇塚→六波羅蜜寺→六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)→法観寺(ほうかんじ)

清水寺→三十三間堂→JR京都駅

源平の争いは平治の乱に始まる。敗者は源義朝、勝者は平氏のカリスマ平清盛。
清盛は六波羅蜜寺領に平家一門の街をつくり、権力の頂点へとひた走っていく。

一方、義朝の遺児、頼朝は伊豆へ流され、常盤御前との間に産まれた牛若丸は、
常盤とともに六波羅の屋敷で養われた。援助していたのは清盛だ。しかし、
常盤は牛若丸の反発を危惧し、真実を語ることはなかった。牛若丸にすれば、
ときおり母に会いにやってくる威風堂々とした男に「父」の理想像を重ねていたかもしれない。

謀反人の一族は死罪という慣例を破り、頼朝、義経の命を助けた清盛だが、
その温情が皮肉にも、平家滅亡へとつながっていった。

牛若丸・弁慶像
「京の五条の橋の上♪」と、口ずさんでしまうほど、
五条大橋は牛若丸、弁慶の出会いの場として有名。
ただし、現在の橋は秀吉の時代に造られたもので、
当時は一つ上流に架かる松原橋が五条大橋だった。
また「義経記」では、五條天神近くの堀川通りを両者の
出会いの場としている。 
扇塚
かつて五条大橋の畔には、時宗御影堂があった。
一ノ谷の合戦で平敦盛が亡くなると、その妻は寺
で得度して蓮華院尼と名乗り、寺僧とともにこの地
で扇をつくったという。
橋の西北詰に立つ扇型の石碑は、
扇発祥と敦盛の悲話を伝えている。 
五条大橋 
 鴨川 松原橋を見る

上流に架かる松原橋が五条大橋だった。

六波羅蜜寺
空也上人が創建し、
平安時代には広大な寺領を有していた寺。平清盛の父、
忠盛が境内に軍を駐留させたことをきっかけに、この地
が平家の拠点となった。最盛期には5200余りの平家一
門の屋敷
が並んでいたという。また、平家に追われてい
た常盤御前が牛若丸を連れて、自首したのもここ。境内
には清盛塚
、平家の残党をかばった阿古屋の塚、宝物
館には清盛坐像などが展示されている。また、建礼門院
遺愛の硯、安徳天皇の無事誕生を祈願した泥塔など、
平家ゆかりの寺宝が特別公開されている。 
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
小野篁(たかむら)ゆかりの寺。
寺紋に源氏と同じ「笹竜胆」だが、
平清盛の祖父正盛が寺領を借り受けた
とも伝わる。 
 冥土通いの井戸
 法観寺(ほうかんじ)
平家を都落ちさせ、征夷大将軍となった木曽義仲だが、
源頼朝の命を受けた範頼・義経軍の猛攻を受け、
近江で討死。首は京に運ばれ、この地に葬られた。
八坂の塔下に供養の塔がある。
 義仲首塚
三年坂 
明保野亭
幕末の志士坂本竜馬が常宿し討幕の密議を志士達と
談合していた侍合で有名であります。当時亭の二階
より京都の町並が一望出来た為追手の行動がよく
わかり しかも産寧坂の石段と調和した風情は当時
竜馬や志士達が維新のロマンを語るに相応しい所
でありました。司馬遼太郎先生「竜馬が行く」でもしば
しば登場するものであります。現在改装後も京都の
伝統的建造物群の中でも最も優れた一つであります。
亭主 敬白 
 京都の町並みが一望
 みやげ物店並ぶ
清水寺
安産を願いに常盤御前が日参していたと伝えられる。
平治の乱後、常盤は源義朝の遺児を捕らえんとする
平家方から逃れ、三人の幼子とともに大和の国へ
落ちのびようとする。その途中、この寺に隠れ潜み、
神仏の加護を祈ったとか。また、
「義経記」によると鞍馬山を出た牛若丸が清水の舞台で
弁慶を打ち負かし、君臣のちぎりを結んだとある。 
 本堂の舞台
 馴染みの景色
 音羽の滝
 豊国神社
豊臣秀吉を祀り、一般に「ホウコクさん」の呼称で人々に
親しまれている神社である。慶長三年(1598)に63歳で亡
くなった秀吉は、後陽成天皇により正一位の神階と豊国
大明神の神号を賜り遺骸は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹
に葬られた。また、その麓には、廟社が造営され、その
偉観は豊国祭礼図屏風(重要文化財)にも描かれており、
壮観を極めた。しかし、豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳
川幕府により取り壊され、秀吉の御霊は新日吉神社に
移された。その後明治13年(1880)当地に社殿が再建され、
別格官弊社として復興された。廟についても阿弥陀ヶ峰の
頂上に再建された。唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え
二条城から南禅寺の金地院を経てここに移築されたもので、
その両脇の石灯籠は秀吉恩顧の大名が奉献したものである。
 三十三間堂
後白河上皇が平清盛に命じ
離宮「法住寺殿」の一角に建立させた
正式名は蓮華王院。
柱間が33あることから三十三間堂と通称される。
鎌倉期の大火で1001体のご本尊も損傷をしたが、
124体は創建時の観音像だ。
 
 JR京都駅

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