石城山(いわきさん)歴史探訪  04/11/28(日)  山口県熊毛郡大和町

Oさんから お誘いで 参加しました。天気にめぐまれ 小春日和でした。

行程

JR宮内串戸駅 Uさん待合せ同乗→山陽自動車道玖珂PA(集合)→三国志城鑑賞→石城山歴史探訪→陰陽石鑑賞
古代山城 いつ、だれが、何のために 明らかでない 神秘とロマンに包まれた山。

約2時間半の石城山歴史探訪。  地元の歴史研究家の説明聞きました。

調査研究テーマ  「神籠石(こうごういし)は土塁の土留石か神域の磐境(いわさか)か

本柱について・・・丸柱と角柱の違い 何を意味する?。どちらが古い? 議論になりました。
日本の古代山城は朝鮮式神籠石の大きく二つに分けて考えられている。

朝鮮式山城とは古代山城のうち、『日本書紀』や『続日本記』に何らかの記載があるものを指す。

朝鮮半島の白村江(はくそんこう)での敗戦の翌々年の665年から唐や新羅の侵攻に備えて築かれた長門国の城、

大野城、基肄城の築城から719年の茨城、常城の停廃までの55年間に十一城ほどの築城、改修、停廃記事が見られる。

記事の中に亡命百済貴族が築城の指導にあたったことが見えるため、これらを朝鮮式山城と呼んでいる。

神籠石は当初、北部九州と山口県に分布する切石列石をともなう山城遺跡の呼称であったが、

中国、四国地域からも文献に未記載の古代山城を広く神籠石系山城という名で呼ぶのが一般的で、現在西日本で

十六城が確認されている。

播磨城山城・大廻小廻山城・鬼ノ城山城・讃岐城山城・永納山城・石城山城・御所ヶ谷城・宮地岳城

高良山城・雷山城・女山城・鹿毛馬城・帯隈山城・おつぼ山城・肥木城・唐原城

07/2/16(金)〜17(土) 7市参加「神籠石」サミット(光市) 福岡市行橋・朝倉・飯塚・久留米・前原市、佐賀県武雄市
               保存活用策で意見交換。

               考古学では もはや神籠石の名称は使っていない、朝鮮式山城も含め
               「古代山城」としている。

               築造時期:七世紀期後半説。

               築造目的? 九州北部:唐軍の進攻を阻む防衛ライン構築の意味合い。
                       瀬戸内海:国府の”逃げ城”的性格もあった、瀬戸内海では国府に近い
                       官人や民衆が緊急に逃げ込む場所

 

三国志城  山口県熊毛郡大和町塩田 0820-48-4600
中国に行かなくても、
諸葛孔明や三国志に登場する武将に会えるところ。
平成十年に開館。三国志ファンにとってたまらない展示がある。

古代食の赤米でおにぎり・お餅 いただきました。
昼食は「名物 孔明うどん」、
歴代総理大臣の「色紙」飾ってありました。

史跡石城山神籠石

石城山神籠石案内図

日本の古代山城は 朝鮮式と神籠石(こうごういし)
に分かれている
いつ、だれが、何のために 明らかでない 

神秘とロマンに包まれた山。

調査研究テーマ

神籠石(こうごういし)は土塁の土留石か
神域の磐境(いわさか)か

 
 東回り
東水門→北門→北水門→西水門→石城神社 回ります。
古柳井水道
山口県柳井市から田布施町に至る熊毛半島の付け根に当たる
ところは、中世以前は海で、九州から都に至る航路であった。
17世紀中頃以降
米・塩・紙の増産した毛利本藩と吉川藩の干拓で陸化された。

すばらしい眺望。

 東水門

石垣は総社の鬼ノ城屏風折の石垣と同じ古代の積み方

 神籠石(こうごういし)

作家の松本清張も二度も調査に来ている。

神秘とロマンに包まれた山。

朝鮮式山城の一種である。

 見張り台 柳井市の眺め

 

土塁跡。人枡(空塚)。

一本松(目標松)

  神籠石(こうごういし)

見張り台の柱穴あった。

 

夜泣石。  

北門 全員の集合写真撮りました。「神籠石」とは巨石を一列の帯状に
並べて、山の中腹から八合目あたりをはち巻状に取り囲んでいる古代
の大土木工事の遺跡につけられた名称である。「石城山神籠石」は明治
42年秋部視学西原為吉氏(福岡県瀬高町東山村出身)によって発見され、
それまで九州でしか存在しないとされていたこの大遺跡が本州でも発見
されたので、考古学界の注目するところとなった。この「神籠石」の列石線
は、南側鶴ヶ峰(標高354mで現在TV塔が立ってる)近く(標高342m)を頂とし
て下向きに回り、石城五峰(高日ヶ峰・星ヶ峰・鶴ヶ峰・築ヶ峰・大峰)を取り
囲み下部は、北水門たりで、標高約268mまで下がっている。列石線の総
延長は2533mにもおよぶ大規模なものである。列石線が谷間を横切る場所
には、高い石垣壁を築き、その中央下部に水門を設け、北水門と東水門は
現在でも見ることができる。城門は、表門と裏門に当たるとみられる遺構が
発見され、第一門跡には「沓石」と呼ばれる二個の門扉の柱礎石が遺って
いる。「神籠石」をいつ頃、だれが、何の目的で構築したかについては、
ながく定説がなく、神域説山城説とで論争されてきたが、昭和38・39年
国の文化財保護委員会と大和村(現大和町)との共同による発掘調査の
結果、従来知られていなかった空濠、柱穴・版築工法による大土塁
数百mにわたり発見され、神籠石式 古代山城の一つであるといわれる
ようになった。 
沓石

門扉の柱礎石  

北門西側の神籠石(こうごういし) 山城の土塁の土留石とか神域を
囲む磐境(いわさか)とか・・・「神域説

当初は磐境で後に土留石に転用したという論があります。
(時差神域説

神の宿る山を城にする「神に守られている 安心感」
敵を排除する祈りの込められたもの・・・「神威説

調査研究されています。いろんな考察・論争あります。

神秘とロマンを感じる遺跡です。  

北門の前

神籠石(こうごういし)  

 北門西側の神籠石(こうごういし)

振返って

 

 

龍岩:男の人浮気したらはさまれますよー、大きく割れた岩。

北水門

山姥の穴と呼ばれている

小さい頃この中で遊んだと地元の人

 西水門

石垣は3段

 

龍尾岩

神籠石  木の根っこ入りこめない、根が外に出ていました。

第2奇兵隊本陣跡

幕末慶応元年(1865)神護寺に「第二奇兵隊」の本陣が置かれた。
翌年に勃発した四境戦争の大島口の戦いにはここから出陣
おおいに活躍した。

 

百間井戸。  

石城(いわき)神社(国指定重要文化財)
  
文明元年(1469)に大内政弘が再建した。

本殿は室町時代の様式。

ここの蟇股(かえるまた)はくりぬかれており、

鎌倉時代の様式をしている。

蟇 股(かえるまた)
「蟇股」とは、蛙(蟇)が脚を広げてふんばった姿勢と似ているところから
「蟇股」と名付けられました。中国では、「人字形割束(にんじけいわりづか)」
に終始しました。我が国では独自な発達を遂げ、神殿にも採用されました。  

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