三木城下 湯の山街道をゆく 兵庫県三木市 2012/4/8(日)
長治公、そして秀吉に愛され、型染・大工道具・金物の町へと変遷してきた城下町・播州三木
戦国時代には、東播8郡24万石を領した別所氏の居城があり、三木合戦によって荒廃した町は、
豊臣秀吉の復興策によって商工業が活発し、今日の金物産業発展の基礎をつくりました。
湯の山街道
有馬の湯が栄えだした頃、これに通じる道は、「湯の山街道」と呼ばれ、特に羽柴秀吉の三木城攻め
の頃(天正6〜8年、1578〜1580年)から、その名は顕著になりました。有馬の湯を知った秀吉は、
三木合戦の最中、兵卒のけが人に対して、この有馬の湯を汲んできて、安福田の野風呂で療養させた
とも伝えられています。また、参謀の竹中半兵衛が病気療養のため、この湯の山街道を通ったことは
有名です。江戸時代には、参勤交代や西国からの湯治客が往来しました。江戸時代には、三木から
有馬まで七里とあります。
行程
三木市役所→別所長治首塚→金物資料館→三木城址→湯の山街道→三木市役所
県立三木防災公園はINAC神戸レオネッサの練習会場。
なでしこリーグ
神戸を本拠とするクラブチーム、INAC神戸レオネッサ。
チーム名の「レオネッサ」とはイタリア語で雌ライオンを意味。
市役所・文化会館の駐車場 止める。 別所長治首塚 桜は2部咲き |
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金物資料館 三木は伝統の鍛冶冶の里 上の丸の金物神社には金物資料館、古式鍛錬場そして 文部省唱歌「村のかじや」の記念碑があります。 ♪一、しばしも休まず つち打つひびき とびちる火花よ 走る湯玉 ふいごの風さえ 息をもつがず 仕事にせいだす 村のかじや♪ ♪二、あるじは名高い はたらき者よ 早起き早ねの 病しらず 長年きたえた じまんのうでで 打ち出すすきくわ 心こもる ♪ |
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鉛筆を削ったり、竹トンボのおもちゃつくったりして親しんだ。 小学校時代使ったナイフ:肥後守(ひごのかみ) 明治時代に三木市で九州から持ちこまれ改良し普及した。 1960年「刃物追放運動」で減少した。 金物資料館展示室 古来から伝わる大工道具 鋸(のこぎり) 鑿(のみ) 鉋(かんな) 左官鏝(さかんこて) 小刀(こがたな) |
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本丸跡に 「今はただうらみもあらじ諸人のいのちに かはる我身とおもえば」 長治交辞世の歌碑があります 三木城祉 天正6年(1578)別所長治のとき、織田信長と戦い、 信長の家臣・羽柴(豊臣)秀吉の大軍に包囲されて攻防1年10ヶ月、 兵糧攻め策力に遭い、天正8年1月17日に城主一族は 開城後は、羽柴秀吉の支配下となりましたが、 自刃して三木城は開城しました。その後、江戸幕府による一国一城 により元和3年(1617)三木城を壊して明石に移築しました。 |
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本丸井戸(かんかん井戸) 2014大河ドラマ 「軍師官兵衛」紀行 2014.04.27 放送 三木城跡 東播磨最大勢力を誇っていた別所氏の居城・三木城。この城は、 小高い丘に築かれた平山城(ひらやまじろ)でした。 1578(天正6)年、突如、織田に反旗を翻した別所氏最後の当主・別所長治。 三木城では激しい戦が2年近く繰り広げられ、秀吉の兵糧攻めの舞台となりました。 城跡に唯一残る井戸が、当時の面影を伝えています。 別所氏の菩提寺、法界寺では伝統行事「絵解き」が毎年4月に行われ、 別所軍と秀吉軍が戦った三木合戦の様子が今に語り継がれています。 |
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湯の山街道 舟板塀 江戸時代の三木川(美嚢川)は、川舟(高瀬舟)による諸物資が 盛んでしたが、 明治になってからは馬車が走り陸運が主に なりました。 塀の板は、この当時の高瀬舟(運送用)の底板を利用したもので、 川舟で諸物資を運搬していたこと物語っています。 |
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志るしの杉玉 奈良県の三輪神社の御神体である三輪山の杉を使って 作られています。 新酒が出来たときに蔵元の玄関に飾られます。 |
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ギャラリー湯の山みち 三木は別所氏時代、秀吉時代、徳川時代へと永代に渡り、 免祖地でした |
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ギャラリー湯の山みち ガイド説明聞きました。 吉川町へ 山田錦の館(酒米山田錦の銘酒ゲット) 吉川温泉よかたん(源泉風呂でゆったりリフレッシュ) |