国指定重要文化財  旧木原家住宅  2003/8/1(金)

JR山陽本線白市駅 途中下車しました。東広島市高屋町白市。

西国街道から離れた所になぜ古い建物がある?田万里へ行く道ある。出雲へ通じる道もある。
説明していただいた管理人の女性教えていただいた。
JR白市駅の駅名の謂れなど・・。

梅雨明け後 やっと夏らしい一日 2時間の散策でした。

北西に約2km、「白市」に所在する江戸時代初期の町屋です。

白市は、三次、久井とともに牛馬市が江戸時代の初め頃から開かれ、最盛期には一日500頭にも
及ぶ牛馬が集まったといわれます。また市の日には劇場などの興業や行商などが数多く見られ、
近隣から多数の人々が集まりにぎわったようです。また、広島、呉、竹原、尾道や三次などへは
一日で行ける距離にあるため、古くから交通の要所で、市場町だけでなく、宿場町として繁栄
しています。

町並み
白市は戦国期に白山城が築かれたことを契機に、城下町、市場町として発展した町である。
以来町並みは南北と東西の主要道路沿いに発達し、木原屋、沼田屋などの屋号を持つ大規模な
瓦葺きの町家があった。現在でも旧木原住宅をはじめ、往時の家屋が所々に見られる。

JR白市駅

歴史的町並み「白市観光案内図」

町並み

国指定 重要文化財 旧木原家住宅 昭和41年(1966)6月11日指定

旧木原家住宅のある白市の町並みは、北端にある養国寺(元暦元年=1184年頃創建の伝)の門前町
として発達した集落である。
文亀3年(1503年)平賀弘保が白山に築城以来この町を積極的に発展させ、元和3年(1617年)から春秋
に牛馬市が開かれるようになり諸興業や露店が誘致され、ますます市も振興してきた

白市の牛馬市は伯耆大山、備後の久井とともに三大市として有名で、明治、大正、昭和(戦前)にかけて
この近郷の最大の行事としてにぎわったものである。この牛馬市に出資し、白市繁栄の基礎を築いたのが、
この豪商木原家を筆頭に白市の商人達でもあった。
木原家は、白山城の支城、高屋東木原城 木原美濃守保成(弘保の弟)の子孫で、その保成は関が原の
戦いの後、主家毛利氏と離れ紀州浅野氏に仕えた。その後一時大畠に居住していたが、江戸時代初期に
白市に移住し、以後代々商人として繁栄した。
木原家は製塩、酒造、両替などの商いをし、芸南有数の豪商となった。ことに製塩業は元禄年間
(1690年頃)に仁方村へ21町歩(21ha)に及ぶ塩田開発を行ったのをはじめ、各地に大規模な製塩業を起こした。
また光成寺の再建、福岡八幡宮の神殿再建、国分寺その他の寺院に宝筐印塔を寄進するなど、宗教的、
公共的事業に寄与している。
旧木原家住宅は寛文5年(1665年)5月27日を鬼瓦にへら書きされており、創建の時代を明らかにする町屋形式
の古い民家の形態を保存している珍しいもので、江戸時代初期の年代銘の入った民家は、奈良の今西家
(1650年頃)についで全国5,6番目であるとも言われている。
昭和43年(1968年)、国、県の補助金で解体修理を行い、当初の姿に復元したもので、桁行12.6m、梁間13.6m
の一重切妻造りで、間取りは梁行に三分され、正面右側に土間が奥まで続く通り庭とし、左側に二列の居部屋が
「みせ」「ざしき」と並んでいる。また寝間が納戸構えになっていること、「みせ」は板間であることなど古い形を
伝えている。

白山城跡
平賀弘保が戦国時代の文亀3年(1503)に築いた山城で、平賀氏の領地のほぼ中央に位置する。この地は交通の便が
よい白市の町を眼下に見下ろせるほか、四方を眺望でき、自然の地形を利用して防御に便利な城である。

木原家の家紋
梅ヶ唐花(うめがからはな)といわれ、木原家の家紋である。その謂れは、平賀氏の開祖松葉資宗が壇ノ浦で平家の
赤旗を射切り、その功績で文治元年(1185)後鳥羽院より、
御製「出つ羽なる平賀の庄に咲花は幾たび見ても梅のから花」を賜った。
その時から唐家紋が平賀氏の家紋となり、木原家に伝わった。

光成寺(こうじょうじ)
白山城跡の西麓にあり城主平賀弘保が永正2年(1505)に建立したといわれる。本堂横には木原家の墓所があり、
境内には享保19年(1734)の年号がある木原家保満寄進の宝篋印塔、石灯籠などの石造物がある。

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