国史跡二子塚古墳 第3次発掘調査 現地見学会 広島県福山市駅家町弥生ヶ丘団地
2004/7/31(土) 2014/11/23(日)
2014/11/23(日)二子塚古墳とその時代 福山市しんいち歴史民俗博物館
パンフレットです
09/7/23(木)国の史跡指定を受けました。
台風10号接近 気にしながら 強風の中 見学しました。横穴石室内 涼しい 、10人程度づつ入り説明聞きました。
前方後円墳が語る勢力図
前方後円墳は政治的造営物、大和勢力の象徴とされる。
3世紀後半から出現。5世紀前半になると吉備の造山古墳をはじめ周防、播磨、讃岐など各地で最大級となる。
5世紀半ば 一層巨大化が進む近畿とは対照的に、中四国では急に小型化。築造が途絶え、円墳に変わる地域もある。
5世紀前半から5世紀半ばに政治・社会に大きな変動があったと想定される。畿内勢力の支配体制が強まり、多くの
地域で大型古墳の築造ができなくなったのか、許されなくなったとも考えられる。
05/11/24(木)
金銅製の双龍環頭柄頭(そうりゅうかんとうつかがしら)発掘したと発表
大きさは長さ9cm、径の長さ6.3〜7.7cmの楕円形の環の中に、二匹の龍が向き合い、それぞれ玉をくわえている。
国内で出土している50以上の同類の柄頭は通常、二匹の龍が一つの玉を奪い合う姿が描かれており、
国内では初めて確認された意匠という。大太刀本体は見つかっていない。
「日本海側に多く出土している双竜環頭太刀が、山陽側で見つかったのは興味深い。
デザインなどの特徴から吉備一帯の勢力とは異なる、畿内(大和政権)勢力と結びついた埋葬者の可能性が高まった」
柄頭(つかがしら)は、太刀の柄(握る部分)の先に付けた飾りです。金銅製で、長さ9.0cm、環の直径7.8cm、短径6.2cm
を測り、向かい合った2匹の龍がそれぞれ玉をくわえたデザインは、他の例がないものです。
12/3(土)現地説明会 行けず。 11/25の中国新聞の記事です
2014/9/6〜11/24 福山市しんいち歴史民俗博物館 「二子塚古墳とその時代 ”蘇る”双龍環頭柄頭
05/2/19(土) 新市コミュニティーセンター
「福山市北部の発掘調査速報」 @尾市第1号古墳(新市町)A二子塚古墳(駅家町)B千田平ノ前古墳(千田町)
講演会聞きました。予定時間過ぎました 地元TV録画に来ていました。翌日朝日新聞 備後版 掲載されました。
『説明会資料』
1 遺跡の現状
二子塚古墳は、古墳時代後期(6世紀末)に築造された全長67m(周溝を含めると73m)の前方後円墳で、
広島県東部地域の代表的な古墳として1948年(昭和23年)に県史跡に指定されている。
全国的に前方後円墳が造られなくなる時代の古墳で、この時代の前方後円墳としては県内最大規模を誇り、
さらに後円部と前方部の両方に横穴式石室を有する数少ない古墳である。
2 事業の目的
墳丘測量や発掘調査により、古墳の規模や内容を確定し、保存対策を講ずるための
必要データを収集することを目的に、2002年度(平成14年度)から年次計画に従い実施している。
3 これまでの調査
○2002年度(平成14年度)第一次調査
★測量調査と墳丘の範囲確認調査を実施
・古墳の周りを巡る溝(周溝)を検出。
・墳丘の全長と、後円部の径を確定。
・前方部は何種類かの性質の異なる土を交互に突き固めながら積み上げた版築状盛土であった。
○2003年度(平成15年度)第二次調査
★墳丘の範囲確認調査を実施
・前方部の幅・くびれ部幅の確定と、補足調査により、古墳の全体規模がほぼ確定。
古墳全長73m(周溝含む)・墳丘全長67m・後円部径41m・後円部高さ6.1m
前方部最大幅27m・前方部高さ4.3m・くびれ部幅19m
・古墳の造り方が明らかになる(旧地形を一旦平坦にし、周溝を掘り、横穴式石室を構築しながら、
版築(はんちく)状に盛土をするという、緻密な設計のもとに造られた前方後円墳)
・前方部にある横穴式石室の長さの確定。(全長12.5m)
・古墳の南丘陵で、弥生時代後期の竪穴住居跡2棟を検出。
4 2004年度(平成16年度)調査の概要
★後円部にある横穴式石室の調査。
・羨道に大量の土砂が堆積していたため、今まで容易に石室内へ入ることができなかった。
・石室の西半分を床面近くまで掘り下げ、石室への出入りが可能となった。
・花崗岩の巨石を使った巨大な石室であることが判明。
・石室の規模がほぼ確定。全長14.5m
玄室長さ6.8m 玄室幅2.1m 玄室高さ3.5m
羨道長さ7.7m 羨道幅1.6m〜1.8m 羨道高さ2.2m〜2.4m
羨道高さ2.6m
・羨道の入口に続く形で、天井石は架からないが、小型の石材を積み上げ側壁としている施設(墓道)が存在した。
長さ6.8m、幅2.4m〜3.0m
・石室規模は県内最大で最長。側壁を築いた墓道をもつ横穴式石室は、県内に例がない。
・玄室の床面には巨大な河原石が敷かれていた。
・玄室床面近くで、組み合わせ式の石棺の一部が検出された。(底石は凝灰岩製と思われる。)
○主な出土遺物
・玄室から須恵器の杯・高杯・提瓶、土師器の高杯脚部が出土した。
須恵器:古墳時代中期にあたる5世紀に、朝鮮半島からもたらされた あな窯の技術で作られた硬質の焼き物をいいます。
坏(つき)の身や蓋、大甕(おおがめ)などのほかに、壷、器台、装飾性の高いものなど、様々な器があります。
千度以上の高温で焼かれているため、青く堅い特徴をもっています。
・羨道から須恵器の杯・甕片および馬具と思われる鉄製品の一部が出土した。
杏葉(ぎょうよう)は馬具などの装飾品で、西アジア地方から中国に流入した文様の一種であった。
唐の時代に流行し、それが日本に伝わったと考えられている。
形が杏の葉に似ているところから、こう呼ばれる。
古墳時代後期に馬と馬具が普及すると、大きな権力をもつ首長はより優美な馬具を所有します。
古代馬文化の壮麗さと権威が読み取れる。
杏葉は舶来の文様として珍重され、やがて家紋としても採用された。
豊後の守護となった大友氏が杏葉紋を使用している。浄土宗で、杏葉を寺紋とする寺が多い。
これは宗祖・法然上人が大友氏の一族の出身であることに因むと伝えられている。
2014/11/23 二子塚古墳とその時代 石のひつぎの謎? 古墳の主がおさめられていた、石のひつぎです。 「竜山石」という石で、 約140kmはなれた兵庫県高砂市から運ばれてきました。 どうして遠くから重い石のひつぎを運んだのでしょうか。 |
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組み合わせ式の石棺の一部
底石は凝灰岩製 近畿から? |
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版築状に盛土跡
旧地形を一旦平坦にし、周溝を掘り、 横穴式石室を構築しながら、 版築状に盛土をするという、 版築とは古代中国で発達した土木技術。 緻密な設計のもとに造られた前方後円墳 盛土は、周溝を掘り上げた土や、 別の場所から運んできた種類のちがう 土を10cm前後の厚さで交互に積み上げていました。 (版築(はんちく)状盛土) このように大規模な土木工事が行われていました。 |
築造工程推定図
玄室内部
中は涼しい。 大きな奥壁 左側は西側壁 |
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玄室内部 | |
羨道/玄室 | |
玄室内
側壁 |
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石棺 | |
墓道から羨道へ
ここから内部に入りました。 |
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墓道に石組みありました
県内初となる石積みの墓道 奈良県当麻町の平林古墳などで確認されている。 畿内の影響を強く受けていたことがうかがえる。 |
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見学会 臨時駐車場に車をとめました。
墓道→羨道→玄室・石棺 考古ファン 並んで玄室に入ります。 玄室内は 10人ほど 一杯になります。 |
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玄室の真上 後円墳から前方部を見る
資料を貰いました。 出土品を見ました。 |