吹屋ふるさと村 銅と弁柄の里 岡山県・成羽町  2003/5/17(土)

吹屋は中国地方の銅山町で、江戸時代は天領地となりました。もっとも栄えた時代は江戸元禄時代
泉屋(のちの住友)が請負った、地元大塚氏が請負う幕末までの100年間明治6年より岩崎弥太郎氏
(のち三菱)による近代技術を馳駆した水力発電による選鉱・精錬で、日本3財閥のうち住友、三菱の
2財閥が吹屋銅山
でその基礎が確立されたことは注目されました。

吹屋の特産物である弁柄は、銅鉱石の副産物として産出される磁硫鉄鉱石を原料としており品質、
純度が他に比較し極めて良質のため九谷焼、有田焼などの陶磁器の赤絵、能登、輪島塗りなどの
漆器、家屋、船舶の防腐剤として各方面にさかんに使用されました。この弁柄は吹屋に工業商業を
発達させた全国で1か所の生産販売の弁柄商人の町として町並みが形成され莫大な利益により
現在の弁柄格子、入母屋造りの豪壮たる商家群が形成されました。

昭和49年12月  岡山県指定 吹屋ふるさと村
昭和52年5月   文化庁選定 吹屋重要伝統的建造物群保存地区

ドライブ距離 130km。7時間のふるさと探検でした。藤森食堂で昼食(山菜うどん・おにぎり)

周遊券(4ヶ所の入館料700円) 郷土館弁柄館笹畝(ささうね)坑道広兼(ひろかね)邸

広兼邸は映画「八つ墓村」のロケ地が昭和52年と平成8年の二度にわたりおこなわれ、
全国に放映された。

 

郷土館 郷土館
この家は弁柄窯元・片山浅治郎家の
総支配人片山嘉吉
 
中庭

(当時吹屋戸長)が分家され、明治7年頃より企画し本家の材木
倉より良材を選び(当時本片山家は職業柄千余町歩の山持ち成り)
石州大工島田綱吉の手により明治12年3月完成されたもので
当時の模様を最も良く保存されておるので当主片山恵資氏に請い
郷土館とす。間口五間、奥行十六間、中級の商屋の定形で店より
通り庭で主家の奥に味噌倉、土蔵を配し主家の採光のため中庭
をとっている。
土台と外側の柱はすべて栗の角材を使い、縁敷居は桜の巨財を
使ってあるこの家の特徴は木組は巨財を使い細部は巧緻という
ほかなく、ことに座敷の書院まわりは生漆と弁柄で塗り上げ、
それぞれに飾り金具を用いている。専門家も「これ程の良柱と大工
の手のそろった家は世に少ない」と感嘆す。

 胡屋(えびすや)片山家

片山の総本家で元祖弁柄釜本の一軒である。1700年代後半の
建築
で平入形式。欅(けやき)の格子、框(かまち)の飾り金物、
二階壁面の美しく珍しい形のなまこ壁等の特徴を持っている。
背後には宏大な弁柄倉庫や米倉等がある。

中町の町並み  中町の町並み
 

叶屋
 叶屋
 

吹屋小学校
吹屋小学校


使用している木造校舎としては日本一古いもの

 
 弁柄の出来る順序  弁柄が出来る順序
ベンガラ館 ベンガラ館 弁柄とは印度ベンガラ地方に産する黄土(天然酸化鉄)
より命名
されたと伝えられる。日本でも古く装飾・古墳時代から使われ
徳川初期の長崎輸入品控には蘇ほう、その他の色素とともにその名が
しるされている。吹屋の弁柄は宝永年間(1704)より銅山の捨石の
中から硫化鉄鉱を拾い出し家内工業として極く素朴な製品が少量づつ
作られはじめ宝暦初年本山鉱山開発、緑礐(ローハ)製造その凝結に成功
しこのローハを原料とし弁柄の製造も工業化の折柄寛政年間(1790)
早川代官が地場産業としての将来性を認め仲間組合を作られ御免町人
として許可その製造販売を援助奨励されてより個々には隆退交替があれ
ど組合として製品の優秀さと仲間組合の合理性により昭和年間大阪で
一時盛んに製造されたダライコ弁柄(鉄丹弁柄)との競争にも勝ち以来
徳川、明治、大正、昭和中期まで200年間日本ただ1ヶ所の産地とし
て繁栄
を続け現在邸宅調度などにそのおもかげを残している。 
 

坑道
 笹畝(ささうね)坑道
江戸時代にはこの地から馬の背中にのせて成羽町下原の総門まで運ばれ、
高瀬船により玉島まで行き、海路を利用し大阪の銅役所へ運ばれた。
 沿革  広兼(ひろかね)邸
広兼邸は大野呂の庄屋で、同家2代目元治が亨和・文化の頃小泉銅山と
ローハ(弁柄の原料)製造を営み巨大な富を築き、徳川末期に建てられた
主屋・桜門、城郭にまがうばかりの石垣は、今もそのまま当時の富豪を
偲ばせています。
 建物 敷地
2,581m2
建物
本宅323m2、離れ座敷117m2、長屋103m2、土蔵153m2、桜門8m2

金田一耕助の「八つ墓村ロケ地  



城郭にまがうばかりの石垣 

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