周防高森〜高水  西国街道を歩く  2004/4/15(木)

目に優しい 新緑の季節、

芝桜が土手に植えられ綺麗でした 桜並木の島田川沿い・JR岩徳線沿い 

歴史解説楽しみました。

行程 約12km・約6時間
JR周防高森駅→宇野千代文学碑→高森宿→通化寺(遊撃軍陣営)→高森八幡宮→島田川→孝行塚→差川一里塚跡→
JR米川駅→差川十字路→宗泉寺旧跡→中川峠→郡境の碑→正覚寺・今市一里塚跡→JR高水駅

 

イラク人質事件・日本人3人解放された日。新たに2人 人質不明。

幕末維新と西国街道
幕末期、慶応二年(1866)六月から八月にかけて安芸国の西国街道を舞台に激しい戦闘が繰り広げられた。
幕府軍と長州軍との間で戦われた長州戦争である。

慶応元年(1865)十一月、幕府は彦根藩以下三十一藩に第二次長州征討のため出兵を命じ、
翌二年五月には幕府軍約一万三千が広島城下に集結した。
六月七日幕府軍による周防大島への砲撃を皮切りに、芸州口石州口小倉口でも戦闘が開始された。

六月十四日に開戦した芸州口の戦闘で、長州軍は幕府軍の先鋒である彦根・高田両藩兵を撃退し、
西国街道を東へ進撃する。そして、玖波(現大竹市)から大野(現在廿日市市)に至る

四十八坂で洋式訓練を受けた幕府麾下の諸兵及び和歌山藩兵らと対峙し、
約一ヶ月にわたって戦闘を交え、戦況はは一進一退を続けた。しかし、その後
戦況は長州軍の圧倒的優勢に傾き、八月七日未明、宮内村(現廿日市市)
専念寺と天王社に本陣を置いていた彦根・高田両藩兵からなる幕府軍は、
長州軍の奇襲を受けてたちまち瓦階した。

こうした中で幕府内部から撤兵の機運が高まり、事態は急速に終結へと向かっていった。

長州戦争によって、西国街道沿いの村々及び宿駅である玖波・廿日市は、
家屋が焼失するなどの甚大な被害を受けた。

JR周防高森駅

ここから出発です。

広島駅から1110円。

にっぽん縦断 こころ旅  俳優火野正平が
視聴者から寄せられた手紙に書かれた
「こころの風景」を訪ねながら
日本列島を相棒「チャリオ」(自転車の愛称)で縦断する。

2015年秋の旅 放送日:2015/10/22(木)

ここから山口県の旅 3日目。
駅前食堂でオムレツを食べる。  

父の古里である山口県周東町中市の文学碑広場
高森地区の風情や思い出をつづった一節が刻まれている。
宇野千代文学碑
その高森の
廣い往還を
思い出すたびに
なぜあの山奥に
ふいに あんな美しい
町並みがあったのか
不思議に 思ふ 
宇野千代

薄墨桜の葉桜下で。
桜もち 美味しかった。薄墨桜デザインの風呂敷を鑑賞。
淡墨桜で宇野千代が自らデザインした着物 町に寄贈。

 
 文学碑に街道跡

かつては道の中央に水路が通っていた。

 高森本陣跡

2階部分は白の塗込やナマコ壁あり 
古い町家の面影あった

町営バスで通化寺(つうけいじ) バス代250円。

大同2年(807)の創建。黄檗宗で、本尊は観世音菩薩。
幕末に遊撃隊陣営が置かれ遺品も多数残っている。
境内には、雪舟の築造と伝えられる石庭がある。 

 
 史跡遊撃軍陣営遺跡
遊撃軍は、文久3年10月、蛤御門の戦で壮烈な戦死をした
来嶋又兵衛が藩命により三田尻で組織、狙撃隊など十三の
諸隊に、のち周東町ゆかりの維新団も編入され、奇兵隊と
同様維新回天の原動力として活躍。周東町へは、慶応元年
3月対幕府戦に備えて須々万村から移駐、通化寺に陣営を
置き明治3年3月の解散時まで駐屯、この間、四境の役、
鳥羽伏見の戦、奥州討幕の役等に参加明治元年の明治天皇
東京行幸の際はその供養を命じられています。通化寺に来た
ときの兵員は250人、総督は高杉晋作でしたが、幕府は間も
なく、兵員330人に増員、毛利幾之進を総督、石川小五郎を
副総督に任じています。四境の役では、遊撃軍は芸州方面
防御の主力となり、慶応2年6月小瀬川に出陣、小方・玖波・
大野の幕軍を撃破、二十日市に迫らんとしたとき休戦となり、
翌3年2月に凱旋この役の勝利こそ、まさに近代日本の幕明け
を象徴するものでした。
通化寺 庭園

雪舟の築造と伝えられる石庭

木々・石 スケール素晴らしい、少々荒れている。
手を入れればと思った。  

   高森天満宮


菅原道真公を主神に奉祀してあります。延喜元年正月25日
(菅公57歳)の時、左大臣藤原時平が右大臣である道真公を
政敵として排除し九州大宰府に左遷した道真公は大宰府え
の途中 当地梅林又の名を(緑江の里)で島田川に面した岸辺
にコン々と湧き出る泉で喉をうるをされ 長旅の疲れをいやされ
たと伝えられる。

この由緒ある地に蓮華山総持寺に隠居して寺子屋を開設し学問
の神様として崇敬される天神様の復興に努力され益々繁栄して、
ついに県下三天神の一つに数えられ様になり、春の花神子祭 
4月15日 秋の大祭は旧暦10月25日と決まっていたが近年はその
前後の土日曜日を選んで行われる 

現在の社殿は昭和35年に改築され 53年度に近代色に
塗替えられた。

  境内に句碑

ほととぎす
一聲(ひとこえ)の
江(え)に横(よこ)たふや

ばせを翁(おう)

初夏のある日ほととぎすが一声高く鳴き渡りその余韻が江(隅田川)
に横たわっている様を俳人芭蕉が句に託したものである


尚 推察されることは当地の尾崎梅二、三戸三暁両俳人は 
この句境を眼境の島田川に求めようとしてこの句碑を建立した
と思われる  

  孝行塚  
島田川の清流沿いをJR岩徳線走っています

桜並木ありました

芝桜が土手に綺麗に咲いていました  

旧宗泉寺跡

差川十字路から中山峠にさしかかる急坂にかかる
小高い所にある  

 中山峠へ

右は明治8年の新道

左は旧山陽道

  丸子坂

急坂で馬が粗暴になる血を抜いたという。

街道は竹やぶ深く通行不能  

 中山峠 御駕籠建場の跡
藩政時代 藩主や西国の諸大名が参勤や国内巡視などで
往来の際 駕籠を止めて休息された場所です (立て看板ある)

賽の神 祠ありました  水準点ありました

周東町から熊毛町へ 

徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町は、
合併により平成15年4月21日から周南市

  郡境碑

「従是東玖珂郡」「従是西熊毛郡」の領界石  

呼坂脇本陣の勤めもした正覚寺

高水学園発祥地

「高水村塾の跡」碑の傍らに今市一里塚があった

 
今市宿 呼坂宿とは半里 補完的な役割

竹本本店・創業180年はむくり屋根  

 JR高水駅

八代のなべ鶴渡来地

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