下蒲刈町  2004/2/25(水)

健康への道100選。広島県呉市下蒲刈町。

古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えてきた町であり、江戸時代には善隣友好の使節団である
朝鮮通信使が12回来日したうち、 11回立ち寄ったという古い歴史と伝統をもつ町。

下蒲刈町の県史跡 昭和15年2月23日指定


場所 蒲刈島御番所跡   三ノ瀬200番地
   三ノ瀬御本陣跡    同 31017番地
   三ノ瀬朝鮮信使宿館跡 同 304番地

蒲刈は古くから内海航路の要衝で 船舶として栄えた 福島正則は幕命により 三ノ瀬に海駅を設け長雁木を築いたと
いう 江戸時代浅野藩は ここを公の繫船場として 番所や本陣や上下の御茶屋を常備した 番所には繫船奉行のもと
に定数の船頭 水主が常備され 番船や水船などがいつもつながれて 海上の守りについた 本陣は港に接し 浜本陣
の形態を整えて諸大名の宿泊に利用された 上下の御茶屋は 朝鮮信使の来朝 琉球使節の参府 オランダ人の江戸参
礼の際宿泊接待所に当てられた

行程

クレアラインで呉→JR呉線で仁方→下蒲刈町→見戸代桟橋・高速バスで広島  約5時間の散策。

第二回六カ国協議が北京で始まる。夕方はT君と交流会。

JR呉線 「仁方駅」

散策の始まり  

 蒲刈島御番所跡

常夜燈

 蒲刈島御番所跡

蒲刈島御番所跡  下蒲刈町三ノ瀬200番地
江戸時代海上公路(安芸地乗り)での重要地点である蒲刈島三ノ瀬
には本陣番所が設けられておりました。番所には、
蒲刈繫船奉行のもと船、船頭、加子を常備して、幕命による公用物資の
輸送、使臣(かし)、文書の逓送(ていそう)
、抜荷(ぬきに)を改め海上の警固等の任にあたっておりました。
番所前の海にむかって、東方、西方それぞれに波戸
を設けそこには、常夜燈が置かれ夜中の船の出入りを容易にするよう
な設備がされておりました。

松濤園(まつとうえん)

陶磁器館・御馳走一番館・あかりの館・復元 蒲刈島御番所

入園料800円。

抹茶を頂きました。  

三ノ瀬瀬戸の急潮を借景

美術館からの眺め

蒲刈大橋で上蒲刈島  

   蘭島閣美術館
長雁木(なががんぎ)  下蒲刈町三ノ瀬313〜6番地地先


江戸時代(1600年代)本陣の一環として作られたもので、
福島正則が幕命により作ったところから別名福島雁木ともい
っております。


参勤交代をする西国大名をはじめ、琉球・朝鮮・オランダの使節も
江戸等への往路、復路とも蒲刈島に立ち寄り、この
長雁木から上陸しておりました。作られた当時は長さ約113m、
11段であったといわれておりますが、現在は長さ約
55.5m、14段となっております。  

04/2/28(土)
三ノ瀬御本陣芸術文化会館開館記念した
「福田平八郎展」
03/8月完成。入母屋造り 2階建て 1060m2
「三ノ瀬御本陣」の外観を復元。

新しく出来た

抹茶頂いた娘さんから  

丸本家住宅  旧浅野藩下茶屋役宅
藩政時代の下蒲刈島には藩の接待所である「上の茶屋」と
「下の茶屋」の二つの御茶屋があった。
上の茶屋」は本陣(現役場)裏の高台、
「下の茶屋」は本陣北側の海岸の雁木に沿って展開していた。
丸本家の由来ははっきりしないが、御茶屋の古図の範囲に位置し、
建築後二百五十年以上経過した古い建物であり、棟門を構えた
構成などから御茶屋を管理する武士の役宅であったと思われる。
間取りは六室構成になっていて、中央に弐台付の玄関がある。
玄関の奥は複雑な構成の があったが細かい形がわからない
ので復原していない。
座敷は六畳であるが、朱漆の框を用い、 には上質の杉を使い
黒漆塗りの 良形式にしている。座敷  使途不明の深い石蔵が
ほられている。
土間は元はもうすこし幅が広く奥の方へ廊状にのびていた。
このように、当建物は朝鮮通信使が訪れた頃に存在した浅野藩
「下の茶屋」の建築遺構であり、文化財的価値はきわめて高い。

 綱とり石

1600年頃 波止の先端にあった

安芸灘大橋  
 天神鼻

丸谷城跡がある

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